後白河法皇㉑

「おお、よくわかった。すぐに準備をしよう」
と、後白河法皇はいかにも乗り気な様子で言った。
もちろん、宗盛を油断させて逃げるためである。
後白河法皇はこの時のために、宗盛と協調体制を取ってきた。
宗盛も公家の協力を得なければこの難局を乗りきれないと思い、公家の意見を聞き、後白河法皇の要求も聞き入れてきた。
北陸では、源氏に好意的ながらも源氏のために兵を供出しないことで、源平双方に対しバランスを取った。北陸の状況が平家に味方することを許さなかったのもあるが、宗盛はそれを良しとした。
結果、京都の政治は後白河法皇が宗盛をリードする形になり、宗盛も後白河法皇が平家に離反しないと信じるようになった。
(相手の立場が弱くなれば、不利な状況でも人を信じてしまうものなのだな)
と、後白河法皇は逃げる準備をしながら思った。
清盛なら、この状況で下手に出ながらも後白河法皇を盲信せず、最後は武力で法皇を拉致しただろう。
この点、宗盛は詰めが甘い。
(平治の乱の時も、藤原信頼相手に逃げ仰せた余を何と心得る。平家の手引き無しに逃げることができぬと思っておるのか)
と、この点後白河法皇は片腹痛くもあった。
25日未明、後白河法皇は源資時、平知康のたった二人の供のみを連れて、輿に乗った。後白河法皇は鞍馬路、そして横川を通り、比叡山に登った。延暦寺の東塔円融坊に入った時は、朝日が登りきって暑くなっていた。
義仲は、東塔惣持院にいる。
同じ延暦寺の境内にいるから、まもなく顔を出すだろう。
案の定、義仲から拝謁したいとの使いがきた。
「会おう」
後白河法皇は言った。
その勢力に濃淡はあるとはいえ、義仲は信濃から越後、北陸を支配する者である。
これから京に入り、実質的な京の支配者になるだろう。
すなわち天下人である。
後白河法皇としては、義仲の顔を見ない訳にはいかなかった。
が、義仲は無位無官である。
後白河法皇が天皇ならば、義仲は面会できない立場にあった。
しかし上皇、法皇はこの点自由が聞き、無官の者でも拝謁できる。
もっとも、義仲は御所ーー法皇のいる場所だから御所になるがーーに上がって拝謁することはできない。
義仲は濡れ縁の下で土下座して、後白河法皇に拝謁するのである。
義仲は、来た。
「源冠者義仲にござりまする」
と言って、義仲は平伏した。
後白河法皇は、濡れ縁の上から義仲を見た。
義仲、この時30歳。
田舎育ちらしく、挙措はぎこちないが、源氏の御曹司らしく品のある顔立ちである。
(ーー眠い)
と、後白河法皇は思った。
後白河法皇は57歳、昨日から寝ていない。さすがに体が重く、話が弾まなかった。
義仲は、法皇という、義仲からは想像もできない高みにある人物と体面し、緊張しきっている。
(義仲と長話するのは後でよい。この様子なら、手玉に取れるだろう)
後白河法皇は思った。
体面は終わった。
「ーーこれなるは、山本義経が子、錦部冠者義高にござりまする。この者が院の護衛を致しますのでご安心めされませ」
と、義仲は後ろにいる者に顔を向けて言った。
山本義経は近江源氏である。義仲は既に、近江も手に入れたようであった。
「ーー頼りにしておるぞ」
と言って、後白河法皇は急に心細くなった。
(ーーもう、帝は平家に伴われて御幸されたであろうか)
と思い、武力を持たぬ我が身を嘆いたのである。
(法住寺殿を出る時は、宗盛の脇の甘さに腹が立ったが、普段なら相手の甘さにつけこんで、腹など立たなかったであろう。今まで余は心細く、気を張っておったのじゃ)

義仲が倶利伽羅峠の戦いに勝利したことで、京周辺の源氏も動いた。
甲斐源氏は武田信義は動かなかったが、一族の安田義定は義仲に同調し、東海道から京を目指していた。また義仲の叔父の行家は、伊賀方面から京に向かっていた。
また鹿ヶ谷の陰謀事件を平清盛に密告した多田行綱は、7月22日に摂津、河内国で平家に反旗を翻していた。
さらに上野国に本拠を置く足利義清は、義仲に同調して北陸で戦った。
義清は、倶利伽羅峠の戦いの後、義仲が近江に出たのに対し、北陸から丹波に入ったようである。
そこから老ノ坂を抑えて、摂津河尻で平家の船を押さえて京への物流を遮断した行綱と共に京を封鎖した。
もはや平家が、京を維持できないのは明らかだった。
そもそも行綱や義清に京を包囲される前に、京を退去するべきだったのである。
こういうところにも、宗盛の詰めの甘さがある。
後白河法皇の法住寺殿脱出を知った宗盛は、六波羅に火を放った。
しかし軍事では二流の宗盛も、政治では意外にいい動きをする。
平家は、安徳天皇と、安徳天皇の異母弟の守貞親王を連れ出した。守貞親王は安徳天皇の皇太子に擬せられていた。
安徳天皇がまだ幼児であるため、安徳天皇が夭逝した時の保険だったと思われる。
しかしそれなら、高倉天皇の皇子は全て連れていけばなお良かったと思うのだが、平家はそれをしていない。
どうやら、意外とこれは宗盛の深謀遠慮であったようである。
この後尊成親王が即位して後鳥羽天皇となるが。後白河院政が続いているとはいえ、平家が三種の神器を持ち出しているため、後鳥羽天皇の即位は皇位の正統性を欠いていた。
そこに高倉天皇の皇子だけでも全て連れ出せば、後白河法皇の皇子は、他は全て出家している。後白河法皇の皇孫は、義仲が擁する北陸宮しかいない。
後白河法皇の手持ちのカードが北陸宮しかいなくなれば、以仁王の子であった北陸宮を即位させるしかなくなり、源氏の士気はさらに高まっただろう。しかし高倉天皇の皇子を二人京に残しておけば、以仁王を嫌っていた後白河法皇は、北陸宮を天皇にはしないだろうと、宗盛は読んだと思われる。
他に連れ出したのは、建礼門院、それに近衛基通。
清盛の弟の平忠度は、歌人の藤原俊成に師事していた。
忠度は一門と共に都落ちしたが、途中で従者六人と共に引き返し、俊成の屋敷に赴いた。
俊成はこの年、後白河法皇の院宣により、『千載和歌集』の編纂を行っていた。
忠度は、自分の百余首の歌を書いた巻物を俊成に渡した。
俊成は『千載和歌集』に、忠度の歌を1首載せた。

「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを
昔ながらの 山桜かな」

が、『千載和歌集』六十六番目の歌として載せられている。
しかし忠度は朝敵であり、忠度の名を載せるのは憚られた。そこで六十六番目の歌は「詠み人知らず」とされた。
平維盛も都落ちしたが、維盛は妻子を伴って都落ちさせるのは忍びがたいと思い。妻子を都に残すことにした。
維盛の子は六代と言い、清盛の祖父の正盛から数えて六代目に当たるため、六代と名づけられた。
六代は京都普照寺に潜伏していたが、文治元年(1185年)、北条時政によって捕らえられた。しかし頼朝が伊豆の流人であった頃から、頼朝と知遇のあった文覚上人の助命嘆願により神護寺に預けられ、後に妙覚という僧侶になった。
維盛の妻は、夫の死後、吉田経房と再婚した。しかし妻子との別れを惜しんで都落ちが遅れた維盛を、宗盛は変心したかと疑った。

26日には、後白河法皇の叡山行幸を知った公家達が、後白河法皇の元に集まった。
翌27日、後白河法皇は錦部冠者と延暦寺の悪僧(この場合は強い僧という意味)・珍慶を前駆とし、京へ還幸し、蓮華王院に入った。
『平家物語』には、「この20年見られなかった源氏の白旗が。今日初めて都に入る」と、この日の感慨について述べている。
28日、義仲と行家が蓮華王院に参上した。
義仲と行家は並んで歩いた。
二人とも、早足で歩く。
互いに、相手に抜かれまいとしているのだ。先に後白河法皇の前に出た者が。序列が上になると思い込んでいる。
こういう点、完全な田舎育ちの義仲はともかく、義仲、頼朝の祖父源為義の十男とはいえ、頼朝より少し年上の行家ですら、京の作法に慣れておらず、田舎育ち丸出しだった。
「あれは何ぞ」
と、居並ぶ公家達は笑いを堪えた。
しかも、二人とも甲冑を着ているが、汚れ綻びもそのままで、粗末なことこの上ない。
はるか後に、織田信長が初めて軍勢を率いて上洛した時、その軍勢の華麗さによって京の人々を驚かせたが、信長は義仲が京で笑われ、ついには嫌われたのを反面教師にして、京童に舐められまいとしたのである。
「夢か、夢にあらざるか」
と、公家達は義仲達の粗末な身なりに、しまいには笑うよりも呆れてしまった。
後白河法皇も笑ってしまいそうになったが、やがてゆっくり、緊張がほぐれていくのを感じた。
(ーーこれは、思ったよりはるかに御しやすいぞ)
義仲同様、行家も無官である。
義仲、行家は、後白河法皇の前で、濡れ縁の下に平伏した。
「ーー平家を追討せよ」
と、後白河法皇は言った。「恩賞は追って沙汰す」
ともつけ加えた。
(さて、どう料理するか)
30日、公卿会議が開かれた。そこで、
「勲功の第一は頼朝、第二が義仲、第三が行家」
と、勲功の順位が決められた。
平家の京の退去に、頼朝は何もしていない。
後白河法皇は意地が悪い。
実質、義仲を頼朝の家人扱いしたのである。

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