後白河法皇⑬

ところが、
「菩提院殿(基房)は2年前、三条公教殿の娘と婚姻していたにもかかわらず、花山院忠雅の娘忠子を北政所にした。そのような御人のところに盛子はやれぬ」
と清盛は言って、盛子の再婚に反対してきた。
(やれやれ、また随分難癖をつけたものだな)
要するに、それだけ摂関家の荘園を手放したくないのだろう。
この件は、これで沙汰止みになった。
(慌てずに、清盛から摂関家の遺領を取り上げる時期はいずれ訪れる)
そう思った後白河法皇は、直後に別の問題に見舞われた。
今度は、延暦寺と興福寺の抗争である。
興福寺は藤原氏の氏寺だが、藤原氏の祖の藤原鎌足の墓がある多武峯は、天台宗の所属となっていた。
興福寺ではこれを不満として、延暦寺と争っていたのである。
後白河法皇は両寺に蜂起停止を命じていたが、6月25日、興福寺の方が多武峯を襲撃した。
後白河法皇は法勝寺の八講への興福寺の僧の公講を停止し、興福寺別当の尋範を解任した。

そんな中の承安3年(1173年)10月、滋子のための新御堂が完成する。
最勝光院という。
宇治の平等院をモチーフにしたもので、後白河法皇が東大寺で受戒した時に、平等院に立ち寄って見取り図を閲覧している。
「天下第一之仏閣」
と、その華麗さにより人々の賞賛を受けたが、実際のところ、後白河法皇の気分はそれどころではなかった。
興福寺は収まらず、11月3日、強訴と延暦寺攻撃のために宇治に向かった。
(どうするか)
と後白河法皇が思っていたところに、清盛がやってきた。
清盛は、後白河法皇に拝謁した。
「相国入道(清盛のこと、清盛が前太政大臣であったことから相国という)」
後白河法皇が言った。「余も安芸の宮島が見たい」
「承知致しました」
清盛が言った。「安芸に御幸なされば、この清盛が御案内つかまつりまする」
これで決まった。
(興福寺の僧兵をはね除ける)

平清盛は、日本が南宋と国交を樹立したことで、ひとまずの目的は達していた。
それだけではない。
南宋との国交により、「日本国王」である後白河法皇が、南宋の下風に立つことになった。
これは、院政において上皇、法皇の下にある天皇の権威の低下である。
天皇の権威が低下すれば、それだけ諸権門への統制力は弱くなり、純粋に実力のある権門が他の権門の上に立つことになる。
この清盛が仕掛けた罠に、後白河法皇は気づかない。
ともかく、清盛は天皇家の権威の低下に成功し、次の相手は藤原氏の氏寺の興福寺である。
摂関家の荘園を預かる清盛としては、ここで藤原氏に打撃を与えておきたいところだった。

後白河法皇は、官兵を動員し、興福寺の僧兵達の入京を阻止した。
もちろん官兵といっても、平家の軍勢がその主力である。
それでも興福寺の僧兵達は引かなかった。
後白河法皇は、使者を遣わして僧兵達の説得を試みるが、僧兵達は首を縦に振らない。
11月7日の、京都西院の春日神社の春日祭は延期になった。
ここで、後白河法皇は思いきった手に出る。
興福寺以下南都15大寺、それに15大寺の諸国の末寺の荘園を没官(没収)したのである。
後白河法皇の強硬な態度は、寺社勢力に衝撃を与えた。
興福寺の僧兵達は折れ、撤退した。
2ヶ月後、後白河法皇は没官した荘園を寺社に返還した。
(ふー、これで厳島に行ける)

承安4年(1174年)3月16日、後白河法皇は滋子を連れて、安芸の厳島神社に向けて旅立った。
途中福原を経由し、26日に厳島神社に着いた。
貴族達は驚愕した。天皇及び元天皇が、安芸まで遠方に行幸することは前代未聞だったからである。
(おお、話に聞いた通りである)
後白河法皇は小舟に乗って、厳島神社の鳥居を潜りながら思った。
目の前に拝殿があり、拝殿が海に浮かんでいる。
(何と美しい、これぞ極楽じゃ、兜率天じゃ)
小舟が拝殿に着き、後白河法皇は拝殿に昇った。
拝殿には舞台がある。
その舞台で、神楽が催された。
「伎楽の菩薩が舞の袖を翻すのも、このようであったろうか」
と、巫女達の神楽を見ながら後白河法皇は言った。
神楽が終わり、
「我の申すことは必ず叶うであろう。後世のことを申すのは感心である。今様を聞きたい」
と言った。これは巫女の言葉であって巫女の言葉ではない。神の言葉である。
後白河法皇は、今様なら即興もお手のものである。
「四大声聞いかばかり 喜び身より余るらん 我らは後世の仏ぞと 確かに聞きつる今日なれば」
四大声聞とは、釈迦の4人の弟子のことである。
4人声聞が釈迦に、後世仏になると告げられて、どれほど喜んだだろうと、四大声聞を引き合いにして、自分が仏になれると告げられたことの喜びを表したのである。
後白河法皇は、感極まって涙を流した。
(仏国土じゃ、清盛がおれば日本中が仏国土になる)
後白河法皇は、帰途に姫路の書写山に登り、圓教寺に参詣した後、京に戻った。

こうして、後白河法皇と平家の間の蜜月はしばらく続いた。
7月8日、久我雅通の右近衛大将の辞任により重盛が右近衛大将になった。
このことは重大な意味があった。
元来、貴族は武士に対し、弾正台や検非違使などの軍事、警察部門の官位は渡したが、近衛府の将軍職だけは貴族で独占していた。
独占するどころか出世コースであり、近衛府の将軍職を経由して大納言、大臣になるという例が多かった。
それは、「宮中は我々貴族が守る」という、貴族の矜持だった。
その矜持を、ここにきて後白河法皇は、貴族達に手放させたことになる。
翌安元元年(1175年)には、重盛は大納言となった。
安元2年(1176年)、後白河法皇は50歳になった。
この時代の天皇、上皇、法皇は短命で、50歳を迎えることは稀であった。
もちろん例外はいる。近年では、後白河法皇の父の鳥羽法皇と、曾祖父の白河法皇である。
後白河法皇の知命(50歳のこと)を祝う賀宴が、白河法皇の康和の例に倣って、盛大に執り行われた。
宴は、3月6日から8日にかけて、3日に渡って行われた。
出席者は滋子、高倉天皇、徳子、上西門院、守覚法親王(後白河法皇の皇子で仁和寺門跡、以仁王の同母兄)関白松殿基房、平氏一門といった顔触れである。
初日は舞と楽が催され、2日目は船を浮かべて、管弦などが催された。
そして最終日には、高倉天皇が自ら笛を吹くという趣向で、列席した人々を感嘆させた。
翌3月9日には、後白河法皇は滋子を連れて有馬温泉に行幸した。
後白河法皇と平家が最も親密だった時期で、平家もこの時期が最盛期だっただろう。
しかし、その平家との蜜月も終わりを告げる。
6月に滋子が病に倒れ、7月8日に薨去したのである。時に滋子、35歳。

後白河法皇にとって、滋子は最愛の女性であり、平氏との間を繋ぐ紐帯だった。
滋子の死は、平氏に傾倒していた後白河法皇の心を、平氏から引き離した。
(清盛は日本を仏国土にする。しかしそれとは別じゃ)
と、後白河法皇は再び平家の勢力を削ごうと考えるようになった。
矛盾している。
しかし、この矛盾が後白河法皇である。
(所詮余はこの国に何かをもたらす訳ではない帝王に過ぎぬ……)
平家の勢力を削ぐには、摂関家の遺領を返還させるのが一番だが、これはすぐにはできない。
今できることは、これ以上平家の勢力を拡大させないことである。
そのための方法は、これ以上平家寄りの天皇を誕生させないこと。
10月23日、四条隆房が後白河法皇の第九皇子を抱えて参内した。高倉天皇はこの皇子を猶子とした。
第九皇子は、後に兄の守覚法親王に弟子入りし、道法法親王となる。
11月2日には、平時忠が後白河法皇の第十皇子を抱えて参内し、この皇子も高倉天皇が猶子にした。
この第十皇子は、比叡山の明雲に弟子入りし、後に天台座主承仁法親王となる。
猶子にしたといっても、高倉天皇はまだ16歳である。
後白河法皇は、高倉天皇に譲位をさせようとしていた。
高倉天皇にはまだ子がいない。
高倉天皇と徳子の間に子が生まれる前に高倉天皇が譲位すれば、、平家の血を引いた天皇が即位する目がなくなる。
もちろんそのような事態は、平氏としては回避したかった。
2皇子の高倉天皇への猶子入りは、平家の反発を想定しての、後白河法皇の妥協策だった。
ここで本来平家側の平時忠が後白河法皇寄りの動きをしているのが気になるが、時忠は嘉応の強訴の時にとばっちりを受けて昇進が遅れていたため、後白河法皇におもねって忠義を尽くすことにしたのである。
12月、蔵人頭に空きができたので、後任の蔵人頭を決めなければならなくなった。
後白河法皇は、後任の蔵人頭に院近臣の藤原定能、藤原の光能を任命した。
藤原定能は藤原道長の兄の藤原道綱の家系で、藤原光能は藤原道長の子孫だが、御子左家という、道長の六男の藤原長家を祖とする家の出身である。
どちらも、長く公卿を出していない家系である。
要は思いきった人事というべきだが、平家は全盛期には公卿10数名、殿上人30数名を排出している。その中で蔵人頭を後白河派の院近臣に持っていかれたのは痛手だった。
もっとも平氏も負けていない。
平氏は左大将を重盛に、右大将を宗盛にするようにねじ込んできた。
後白河法皇は平家の要求を呑んだ。

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