一領具足⑩
(何だってーー)
元親は信じられなかった。信長が淡路に手を伸ばしたら、必ず機先を制して先に淡路を取るつもりだった。
(それがなぜ、信長に先手を打たれた?なぜ情報は入らなかった?)
元親が持っている情報網は、斎藤内蔵助を通じた明智光秀からの情報だった。羽柴秀吉からの情報はなかった。
(いやそれでも、何らかの情報はあって良かったはずだ。羽柴なる者が山陰を転戦している情報は入っている。山陰だ。遠い山陰ーー)
そこまで考えて、思い当たった。秀吉が遠い山陰にいたからこそ、秀吉が淡路まで足を伸ばすとは思わなかった。そして秀吉は急速に南下して淡路島を占領している。
(いや、いくら秀吉の動きが速くても、全く反応できないほどに情報は入らなくなるものか?)
そこで思い当たったのは、信長が宇喜多直家を調略した秀吉を叱責し、武田と通謀した徳川信康を切腹させたことである。
(信長の織田家は、情報が漏れない組織になっていたのだーー)
「元親は、鳥無き島の蝙蝠よ」と、信長は元親を評したという。
元親は白地城にいた。
(なぜだ?なぜ信長が淡路に手を伸ばすのに、これほどまでに何の手も打たなかった…)
元親は煩悶した。
元親は信長に、土佐一国と阿波半国を安堵するように言われていた。そして他からは手を引くようにと。
元親はそれを拒んだ。ならば少しでも早く、四国平定を遅らせてでも、淡路島を信長に取られる前に取るべきではなかったか?そして毛利の傘下の河野氏と争ったりせずに、毛利と組んで反信長包囲網に参加すべきではなかったか?
(なぜ儂はそうせなんだのかーー)
「殿!」
呼ばれて元親ははっとした。
元親を呼んだのは香川信景だった。「河野とのいくさ、それがしに是非先陣を!」
河野とのいくさの評定の場だった。信長の淡路島平定を受けて、対三好と対河野のいくさを見直すため、久武親直も白地城に戻っていた。
(この男、事態が見えているのだろうか?)
元親は考えた。
見えているのだろう。見えている上で、現実を否定している。
信景だけではない。
長宗我部軍は、今が士気が最高だった。元親が作った、四国を統一するための新国家が、信長という新たな大敵を迎えて、その意気が天を衝かんばかりに燃えている。
(ああ、儂はこの男と同じだったのだーー)
「よし!先陣を命ずる。行くが良い」元親は歯切れ良く言った。
「はっ!」
香川信景と久武親直は退出した。
(どうするか、淡路島を信長から奪い取るか)
元親は考えた。
無理だろう。元親が淡路島に手を伸ばせば、信長は大軍を送り込むだろう。
(今の戦略を継続することが最善策だ)
すなはち、四国を平定する。
信長の天下布武に比べ、随分小さい構想だが、この計略をもって信長に全力でぶつかる。それが最善策である。
評定もまた、そういう方針に決まった。
傘下の諸将は、元親という、四国を初めて統一しようという武将を神秘的な目で、仰ぎ見るように見ていた。
信長の天下布武は一層と進んでいた。
天正9年(1581年)2月に馬揃えがあったが、北陸方面軍の総大将柴田勝家も馬揃えに参加していた。
しかし馬揃えに参加している間に、北陸の豪族達が上杉に通じて謀反を起こそうとした
そこで信長は、菅屋九右衛門長頼を能登の七尾城に派遣し、城代とした。
七尾城というのは、室町時代からの守護畠山氏の城で、今は守護職は形骸化しているとはいえ、能登の中心の城だった。
4月、信長は琵琶湖の中にある竹生島を参詣、往復30里を1日で行き来して安土に帰った。
信長に仕える女房達は信長が日帰りすると思っていなかったから、城を出て桑実寺に参詣する者もあったが、帰ってきた信長は怒り、女房達を縛り上げた。
桑実寺にも女房達を出すように言ったが、寺の長老が詫び言を言って助命を嘆願すると、信長は長老もろとも成敗した。
七尾城代になった菅屋長頼は、よほど理非に厳しくて、陰湿な性格らしい。
いくさで活躍したことなど全くといっていいほどないが、官僚としての能力を信長に認められていた。
能登は一応柴田勝家の管轄である。しかし長頼は、勝家に了承を取ることを全くすることなく、信長の権威のみを背景に、能登ばかりでなく越中の不穏分子をも処断していく。
6月、長頼は七尾城家老遊佐続光とその弟の伊丹孫三郎を粛清、温井備前守、三宅備後守は上杉を頼って逃亡した。
越中では願海寺城の寺崎盛永と息子の喜六郎、木舟城の石黒成綱が粛清された。
さらに信長は、長頼に能登、越中の城割を命じ、諸城を破棄させた。
9月、北畠信雄を総大将として、織田軍は伊賀国に四方からなだれ込んだ。
『信長公記』は、伊賀でほとんどの将が降伏を許されず討たれたことを伝えている。筒井順慶は大和の国境の春日山方面に逃げ込んだ大将格の者75人を切り捨てたという。
「信長は残忍である」
と、この頃から長宗我部陣営で声高に叫ばれるようになった。
「仕える女房衆までことごとく手打ちにしたというぞ。女子供に手を出すなどなんとむごい」
元親も、これまでは信長が対する評価をしてこなかったのを、
「信長は残忍非道」
と、家来達に合わせて口にするようになった。
「このような非道が許されて良いものか。信長とは共に天を頂かず」
とも、元親は言った。元親の言う通り、信長が四国を征すれば、一領具足はことごとく滅ぼされるであろう。
安土城に仕える女房を手討ちにしたのは、信長の残虐さを伝える有名なエピソードである。
しかし信長は女性に厳しい訳ではない。
秀吉の妻の寧々や前田利家の妻の松、山内一豊の妻など、織田家からは歴史に名を残す女性を多く輩出している。信長に限らず、織田家全体が女性を大事にしていた証拠である。
権力にとって一番の難事は、権力の浄化である。それも当然で、自分で外科手術するようなものだからである。現代では多少の汚職の摘発があっても根本的な解決にいたらず、まして前近代では、権力の不正を正すのは絶望的といっていい。
城主に仕える女房衆というのは、身分が低くても権力に近いため、当然利権がある。
しかし権力者が内部に探りを入れて摘発するのは最悪の手段で、そんなことをすれば家臣が思うように動いてくれなくなるばかりでなく、情報が入ってこなくなる。信長の人生の特徴は、常に情報に不足していないことである。
ほとんどの権力者が、自分に仕える女性の不正を一度も追求することなく生涯を終えている。処分できるとすれば絵島生島事件のようなことがあってだろう。
結局、何か別の理由をつけて処分するのが、権力の浄化には一番いい。
このようなことが何度もあれば、信長の人格的な問題も考えられるが、信長が自分の女房衆を処罰したのは生涯一度きりである。信長の人格的な問題ではない。
天正10年(1582年)、元親は白地城ににおり、主に阿波の三好を相手にいくさをしていた。
讃岐で抵抗するのは香西佳清と十河存保だけで、伊予は久武に任せ、たまに元親自身が出向いていた。
土佐では、農民の逃散が始まっていた。
元親は村の地侍に、農民の逃亡を厳しく取り締まるように命じ、それでも逃散があった時には村長にも責任を負わせた。
2月、信長は甲州征伐を命じた。
武田領に入った織田軍を遮る者はほとんどなく、武田勝頼は天目山で自害、信長はたやすく甲斐、駿河、信濃、上州を手に入れた。
すると信長は「織田方が信州にて大いに敗れた」と越中に噂を流した。
すると越中の豪族小島六郎左衛門、加老戸式部が蜂起し、富山城を奪い取った。この反乱を柴田勝家、佐々成政、前田利家、佐久間盛政が鎮圧した。
4月21日、信長は安土に戻った。
5月、羽柴秀吉は備中に攻め入った。信長は自ら出陣し、中国を平定すると触れを出した。
同月、信長の三男神戸信孝が四国平定の兵を集めるために住吉に着陣した。
(いよいよ織田が四国に乗り込んでくる)元親は戦慄した。
武田の滅亡は当然、元親の耳に入っていた。敗亡した武田の姿は、そのまま明日の我が身だった。
「信長の天下が長く続く訳がない!見よ、信長の成した非道の数々を」
元親は叫んだ。叫ぶことで、四国の上下の心をひとつにしようとした。
叫び終わると、元親は背中に吹き出すように汗をかいた。
(ここからは、冷静にならなければならない)
元親は久武親直に、河野氏への攻撃をやめさせた。
(こうなっては、今ある手勢で織田に当たるしかない。そして毛利と同盟を結ばないと)
と思い、毛利に使者を送った。
ところが、毛利には織田家から和議の申し入れがあるという。
(和議?なぜ今この時に?)
元親は考えた。信長は毛利と長宗我部の同盟を恐れ、離間の策を謀っているのだと思った。
「信長の策に乗ってはならない。我が長宗我部と同盟を結ぶべし」
と元親は使者を送ったが、はかばかしい返事がない。
(毛利は信長に呑まれている)
元親は思った。(駄目だ!信長を呑むくらいのはかりごとをめぐらさないと、武田のように儂も毛利も滅ぼされる)
元親は集めた情報を総合して考えた。
信長は九州の大友にも、毛利討伐のための出兵を要請している。
しかし一時は九州を併呑する勢いだった大友氏も、耳川の戦いで島津に敗れた後は島津に押されている。そこで信長は大友と島津の間に和睦を成立させ、大友が中国に出兵できるように計らっていた。
(ここまではわかる。しかしならばなぜこの時に四国に兵を出す?)
それまで信長は、柴田、明智、羽柴の三将を方面軍司令官として平定事業を進めてきた。その平定事業を信孝にもさせようというだけなのか?
(しかしならばなぜ講和する?)
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