伊達政宗⑨
蘆名と佐竹、そして相馬は、郡山方面に向けて進出した。
(随分と南だな。この宮森方面には来ぬのか?)
政宗は、蘆名と佐竹と相馬の連合軍が伊達との直接の戦闘を避けようとしていると思った。
郡山城は、田村氏の領域で、城主は郡山氏である。郡山氏は源平合戦の頃の伊東祐親で有名な伊東氏の支族である。
政宗は軍勢を率いて南下した。
すると蘆名・佐竹勢は砦を築き、陣地防衛を始めた。
(砦?持久戦か?)
連合軍が砦を築いたのには理由がある。連合軍は阿武隈川を背にしていたのだった。野戦をして負ければ、連合軍は川に追い落とされる。それを防ぐための砦だった。
しかし伊達勢としても、持久戦は不利だった。政宗は北にも兵力を展開しているため、戦力を南に集中できない。また田村のこともあり、長引けば今は田村は伊達家に属していても、この先どうなるかわからない。
不安材料は、田村の家臣で相馬に味方した大越顕光、郡司敏良である。彼らが三春城内に入ったら全てが覆りかねない。
大越、郡司の二人には伊達家に人質を出すように交渉している。
だが兵力は連合軍の方が多い。長期戦に持ち込まれたら田村の情勢が変化しかねない。
「どうするか」
政宗は軍議で重臣達に問うた。
「敵と同じく、砦を築き堅固に陣を構えるのが良かろうと存じまする」と小十郎が言った。
「悠長に構えておっては田村の状況が覆るわ!」
白石宗実が苛立たしげに言った。
政宗も同意見だったが、口を挟まなかった。
元来、大将は諸将に意見を言わせ、最後に結論を出すものである。しかし若い政宗は、これまで動揺すると、家臣に十分に意見を言わせずに口を挟むことがあった。しかし家督を継いで数年、政宗は窮地にあっても泰然自若を装う術を心得つつあった。
「敵もそのように見て持久戦に持ち込もうとしているのでござりましょう。ならばこちらも余裕のあるところを見せれば良いのでござる。幸い奥州は伊達家に同情してござりまする」
小十郎は言った。
その通りであった。
奥州の土豪達は、佐竹から義広を当主に迎え、秀吉傘下の上杉と敵対した蘆名、佐竹から心が離れつつあった。またその分奥州は、伊達を中心にまとまろうという機運が醸成されつつあった。
「この伊達への同情がなければ、蘆名、佐竹、相馬は郡山城などという田村の端の方を狙わず、田村領の奥深く入り込んでいるはずでござりまする」
「ーーなるほど」
小十郎の言葉に、政宗は頷いた。
「されど、兵力はいささか不足してござりまする。大崎の方は和睦すべきかと存じまする」
政宗は小十郎の進言に従い、大崎と和睦の交渉を開始した。また最上には政宗の生母で、最上義光の妹の義姫に仲介役を願い出た。
義姫の仲介により、義光は伊達領に出征してこなくなった。
政宗は大崎方面に張り付いていた留守政景を郡山に呼んだ。また田村月斎、田村梅雪斎も援軍に駆けつけた。
月斎にしてみれば。政宗が負ければ田村は相馬方に転じてしまう上、連合軍が郡山のような南を攻めているなら、三春で守勢を保つより打って出た方が将士の気も晴れるという算段だった。
これで、伊達勢は4000ほど。
しかし蘆名、佐竹、相馬連合軍は8000人いた。
伊達勢は数のうえでは劣勢だが、連合軍は郡山城に抑えの兵を置かなければならないうえ、背後の阿武隈川の対岸には伊達側の篠川城がある。伊達勢だけに兵力を集中できなかった。
両軍の間では連日小競り合いが繰り広げられ、昼夜止むことなく、1日に数千発の弾が飛び交った。
(ーー敵は一度も本気で戦わないつもりか?)
小十郎は思ったが、やがて事情がわかってきた。
佐竹義重は秀吉から、「惣無事令を遵守し、政宗と和議をするように」と催促されていたのである。
一方、政宗に対しては秀吉は何も言ってこない。
こうなると、伊達勢としては田村の動向を気にする必要がなくなる。和議は寡勢の政宗にとって有利だから、秀吉も田村が伊達側であることを望んでいることになる。
このような状況で、連合軍側も決戦で雌雄を決するという訳にはいかなくなっていた。
(これで大崎の方も関白が抑えてくれたらな…)
と政宗は思うが、この時点では秀吉はそこまではしてくれない。
大崎、最上と和睦すれば、政宗は北に貼り付けた兵力を南に呼んで、蘆名、佐竹、相馬相手に一大決戦をするところだが、秀吉はそこまでさせてはくれない。
政宗は、岩城常隆の元に使いを派遣した。
「和平の仲介をしてくれ」
と、岩城に要請したのである。
またもうひとつ、大越顕光を預かってくれることを頼んだ。
大越顕光は田村の重臣で、今回相馬義胤を三春城に呼び寄せようと画策した者である。
大越顕光は一万石を領する、田村の重臣の二番目の大家である。今は居城の大越城に謹慎させており、政宗に逆らう気配もないが、人質を差し出すでもなく、放置してはおけなかった。
「おお、左京大夫殿のためならば」
と、岩城常隆も応じた。
岩城常隆は石川昭光を誘って、伊達と連合軍の仲介に乗り出した。
「何分、惣無事令もござれば」
と常隆も昭光も言った。
こうして7月16日、佐竹と伊達家の間で和議が成立し、18日には蘆名と和議が成立、21日には両軍とも撤退した。
政宗は宮森城に入った。
政宗には解決しなければならないことがあった。
田村のことである。
舅の田村清顕は死んだが、清顕の生母は未だ存命している。
清顕の母は於北の方と言い、伊達稙宗の娘で、政宗の大叔母にあたる。
その於北の方が、政宗に密書を送ってきた。
それによると、清顕未亡人が相馬義胤と良からぬことを企んでおり、清顕の死も清顕未亡人の差し金かもしれないということであった。
「ーーこれはまことか?」
密書を読んで、政宗は近臣に問い正した。
近臣達もわからない。
田村の家中のことである。
嫁と姑が仲が悪いのは自然なことであり、清顕の突然の死と今回の田村の騒動を考え合わせれば、このような憶測が飛び交うのは当然のことと言えた。
(しかし田村は郡山で共に戦い抜いたではないか?舅殿を殺すような者がいる田村と、40日も郡山でいくさができるものか?)
と政宗は思った。それからも家臣達に清顕暗殺について問い正したが、
「ゴホンッ!」と、と、桑折点了斎が何度か咳払いをした。
(ーーいや、大事なのは何が真実かではない)
と、政宗は気づいた。
「皆の者、このことは他言無用ぞ」
と、政宗は重臣達に言い渡した。
清顕暗殺が真実なら、それに加担した者は焦って無謀な試みに出ないとも限らない。
「至急月斎を呼べ」
政宗は命じた。
(元々無理がある。田村の跡継ぎはめごとの間の子、それも二人目の男子からじゃ。それまで何年もかかるというのに、めごとの間には一人も子が生まれていないーー)
月斎は、その日のうちにやってきた。月斎は他に田村梅雪斎、橋本顕徳を連れていた。
「なんと…これはゆゆしきことでござりまする」
と、密書を呼んだ月斎が声を震わせて言った。
(清顕殿暗殺の儀も含め、皆この月斎の仕組んだことではなかろうな?於北の方は伊達家の者と言っても、隆顕未亡人が田村に嫁いで幾年になるか。それを思えば隆顕未亡人は、伊達家の者というより田村の者と考えるべきやもしれぬーー)
と政宗は思いながらも、
「そこでじゃ、この騒動をどうするかについてじゃ」
と、月斎達に向かって話した。
協議の結果、田村家の当主不在が問題であり、当主の名代を立てることとなった。
政宗は孫七郎に「宗」の字を与え、田村宗顕と名乗らせた。
名代は、清顕の甥の孫七郎にすることにした。
清顕未亡人の処遇について揉めた。
「殺す」という意見も出たが、清顕未亡人は愛姫の母であり、さすがにさわりがある。また清顕未亡人を殺してしまえば、田村家中がどれほど動揺するか計り知れないものがあった。
結局、清顕未亡人を船引城に移動させるということに決まった。
「ーー三春城内の相馬派の者はわかっておるな?」
政宗は月斎に尋ねた。
「はっ、概ね抑えておりまする」月斎は答えた。
「その者達はどうするか」
「所領を召し上げ、田村から追放いたしまする」
「なんということを、そのようなことがあってはならぬ」
と言ったのは、田村梅雪斎だった。
政宗の前で、月斎と梅雪斎の議論が行われた。
(ーー於北の方殿の密書も含めて、全て月斎の仕組んだことだとしたら?)
と政宗は、二人の議論を聴きながら思った。(そうでなくとも、月斎の田村での力は強すぎる。しかし謀反の目は詰まねばならぬし、そのためにも今は儂には月斎の力が必要じゃーー)
結局、相馬派の者達は追放と決まった。
なお大越顕光は、岩城常隆が預かることとなった。
8月3日、清顕未亡人は船引城に移動し、宗顕が三春城に入城した。
8月5日、政宗も三春城に入城し、田村家臣団の挨拶を受け、於北の方に挨拶した。
(ーー真相はともかく、今はこの於北の方が田村での旗頭じゃ)
政宗は9月17日まで三春城にいて、田村領内の相馬派を排除した。
(結局月斎の力を強くしただけではないのか?)
政宗は思った。
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