伊達政宗㉚

慶長8年(1603年)3月12日、徳川家康は伏見城から二条城に移った。
徳川家と朝廷の蜜月を強調するためである。伏見城は、関白を辞めた豊臣秀吉が朝廷と距離を置くために造った城で、天守閣もあり、天皇が行幸できる場所ではなかった。
洛中にある二条城には天守閣もない。天皇との蜜月関係を築いて、天下は徳川のものだと、家康は大坂にいる豊臣秀頼の生母淀殿に見せつけていた。
3月27日には、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を集めて将軍就任の祝賀の宴を行った。
家康のやり方は巧妙である。
征夷大将軍となった家康は、本来朝廷に忠誠を示す必要も、京に在中する必要もない。家康はそういう征夷大将軍の性質を、最大限に利用した。
秀吉は関白の頃、聚楽第に天皇の行幸を仰いだが、太閤になるや伏見城に居続け、天皇を顧みなかった。
しかし家康は在京して天皇への忠勤に励みながら、天皇の行幸までは求めない。そうすることで、秀吉が天皇を利用するだけ利用して、天皇に不敬を働いたことを天下に示していたのである。
4月4日からは、諸大名や公家衆を招いての、3日間の能楽の宴が行われた。
政宗は、これらの宴の全てに出席していた。
政宗だけではない、諸大名は皆、在京して一連のイベントに参加していた。
家康の将軍就任のイベントに多くの大名が出席するほど、それは豊臣政権への批判者がそれだけいることになる。
しかし徳川幕府は京にあるのではなく、朝廷を特別に優遇するのでもない。
このような朝廷との蜜月が半年ほど続いた後の10月16日、家康は右大臣を辞任した。これからは政治の中心は京ではなく、江戸になる。

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