後白河法皇㉓

源氏や平氏が、武士の旗頭としてこの時期に台頭した理由がわかる。
ある武士のことが気に入らなければ、貴族はその武士の一族を系図から外して、
「あれは我が一族の者ではない」
と言うことができる。
しかし、その武士が源氏か平氏の棟梁を主君としていれば、
「我が家は実は源氏(平氏)である」とすることができるのである。源氏でも平氏でも、貴族の末裔なら、つまり平民でなければ、それに見合った権利を享受できる。
それに加えて、頼朝は荘園を本社に返すと言う。
確かに、荘園は戻ってくる。
しかし、頼朝の支配下の東国の荘園の下司は、皆頼朝の配下である。
頼朝の配下でない武士の下司もいたが、それらは皆、頼朝に討伐された。
こうして討伐された「平家方」の武士の荘園には、頼朝の御家人が新たに下司として任命された。頼朝に任命された下司を地頭という。
問題は、貴族の方にある。頼朝に任命された地頭を、はたして貴族は解任できるのか?
まさにそのことで、後白河法皇は悩んでいた。
かといって後白河法皇には、他に手立てはないのである。
義仲軍は、京の各所で略奪を行っており、長く駐留してほしくない。
また頼朝がダメなら、平家を戻すという訳にもいかない。平家では京を維持して、全国に睨みを効かせることはできない。かつては源氏がダメなら平家と、武士団を競わせ、ぶつけ合わせて朝廷が主導権を握ることができたが、今は京に力のある武装勢力が存在して、朝廷がその武装勢力に対し主導権を握る手段を尽くすしか方法がなくなっている。京に武装勢力のいない朝廷に、地方の武士は従わないのである。
頼朝が上洛しないなら、飢饉が止むのを待つしかないが、朝廷としては頼朝に食糧を送ってほしい。
京が餓えて、義仲の兵に略奪を受け、朝廷は泣きっ面に蜂なのである。
(頼朝は、この時を待っていたかーー)
後白河法皇は、苦々しくもそう思った。
しかし、貴族達は、頼朝の提案を喜んでいる。
(馬鹿め、武士がお主らの支配から脱してしまうのだぞ)
だが、後白河法皇も頼朝を選ぶしかない。
後白河法皇は寿永2年(1183年)10月9日、頼朝を本位の従五位下に復した。
そして14日、
「東海、東山諸国の年貢、朝廷神社仏寺ならびに王臣家領の荘園、元の如く領家に随ふべき」
と、宣旨を下した。これを寿永2年十月宣旨という。頼朝の東国支配権を実質承認した宣旨だった。
しかしまた、これも完全な合意ではなかった。
後白河法皇は、義仲の勢力圏の信濃と上野を宣旨の対象から外していた。
しかし頼朝は、義仲を京から排除するように要求したのである。
(ーーまずい!)
後白河法皇は冷や汗をかいた。
頼朝に、義仲を排除するように要求されていることを、義仲に知られる訳にはいかない。
「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」
と、後白河法皇の近臣高階泰経が語るように、京は義仲が軍事制圧しているのである。
頼朝との関係が切れていれば、後白河法皇は義仲に気を使う必要はない。
しかし、後白河法皇は既に寿永2年十月宣旨を出してしまっている。
頼朝もわかっているのである。後白河法皇と頼朝の交渉内容を、義仲が知ったらどうなるか。
何しろ今は飢饉の真っ最中だが、東国は飢饉から開放されている。
しかしいずれは飢饉も止み、義仲が京を固める時がくる。頼朝には、今が義仲排除の最大のチャンスだった。
それだけではない。一度は上洛を断念したが、頼朝は上洛しようと思い直し、閏10月5日、鎌倉を後にした。
しかしこの時、平家一門でありながら、平家一門に置き去りにされて京に残留した平頼盛が、京の深刻な食糧不足を伝えてきた。
そこで頼朝は、再び自らの上洛を断念し、弟の義経と中原親能(大江広元の兄)を京に派遣することにした。

一方、義仲は平家の本拠、讃岐国の屋敷に渡ろうとしていたが、そのためには山陽道の平家軍を抑えなければならない。
山陽道の平家軍は、備中国の水島(岡山県倉敷市玉島)にいた。この方面に、義仲は足利義清、義長兄弟と海野幸広を向かわせた。
平家は、京を捨てたことで、かえって水を得た魚のようになっていた。
平家は陸戦では源氏に劣るが海戦には源氏よりも慣れている。
しかも、平家の水島方面の大将は平知盛だが、実質的には平家で最も軍事に優れる平重衡であった。
寿永2年十月宣旨から約半月が過ぎた、閏10月1日。
平家は、海上に船と船をつなぎ合わせ、船の間に板を渡して陣を構築した。
「あれは何ぞ?」
源氏勢は戸惑いを覚えながら、沖にある平家の陣を見た。
「恐れるな、ただのこけおどし、平地と変わらぬ」
と義清の声で、将兵は多少の落ち着きを取り戻した。
浜から見るに、平家の船は全て板でつながれている。
(向こうからは攻めてこず、ひたすら守りに入るか)
と義清は見た。
源氏勢は、小舟を多数用意し、平家の陣に近づいていった。
「まだ射るな、引きつけよ」
と重衡は命令した。
源氏勢は小舟で、平家の兵士に刀が届く距離で、ようやく刀を抜いた。
「今だ、射て!」
重衡は叫んだ。海上での戦いがわからない源氏勢は、矢が届く距離を越えても、矢を射つことを忘れていたのである。
源氏軍は浮き足立ったが、体制を立て直して応戦した。
その時、空の日が陰り、暗くなった。
「あれは何ぞ!」
と、源氏の将兵は、太陽を指さして口々に叫んだ。
金環日食である。
源氏は知らなかったが、平家は京にいた時、暦を作成する仕事もしていたので、今日金環日食が起こることを知っていた。
源氏勢は混乱したが、平家方は士卒の隅々に至るまで、今日金環日食が起こることを周知させていたため混乱はせず、再び浮き足立った源氏の兵に確実に被害を与えていった。
源氏勢は、引き始めた。引けば、全ての船を板でつながれている平家は追ってこれないという安心があった。
ところが、平家方は船に馬を乗せていた。
馬は船の屋形の中にいたが、源氏勢が逃げていくと、平家は屋形から馬を引き出し、馬ごと海に飛び込んだ。
この海は、馬が泳いで渡れる海なのである。
平家勢に追われて、源氏は恐慌をきたした。
何しろ平家は、源氏を追ってこれないと安心していたから、平家に背後を追われて、源氏は後ろも見ずに逃げ、平家はその源氏の背中に矢を浴びせた。
平家が勢が浜に着く頃には、平家は源氏の武者の半数を撃ち取っていた。
この戦いで、足利義清、義長兄弟、海野幸広、高梨高信が討死した。
水島の戦いの敗北を知ると、義仲は讃岐への渡海は無理と判断した。
そこに、義経が数万の兵を率いて上洛を目指しているという情報が入った。
義仲は驚いて、15日に京に戻った。
義経が数万もの軍を率いているという事実はない。
義経が率いていたのは500~600騎である。頼朝は京の食糧事情を考慮した上で、義経を派遣している。
兼実の日記『玉葉』に、気になることが書いてある。
閏10月17日条に、頼朝の郞従が秀平(秀衡)の許に向かい、「仍りて秀平頼朝の士卒異心あるを知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す」
とあり、奥州の藤原秀衡が義仲に伝えたと兼実は言っている。
しかし、この時期に義仲を動揺させても、義仲が不利になるだけである。
もし秀衡が、義仲が頼朝の勢力に倒される隙に、例えば北陸を手中にしようとしたとすればこういうこともあり得るが、秀衡の望みは自分の勢力維持以外にない。
だから、これは頼朝の工作によるものだろう。奥州からの使者と偽り、鎌倉御家人を通じ、義仲に誇大な情報を伝えたのだろう。
19日には、義仲が後白河法皇や貴族を伴って北陸に向かうという風聞が流れた。しかし義仲は、
「その風聞は備前守(行家)の嘘である」
と自己弁護した。
行家は弁舌が立ち、後白河法皇に取り入って義仲を出し抜こうと常に画策していた。
そんな義仲と行家の関係は、水島の戦いの敗北以降、急速に悪化していった。
行家は義仲と公然と別行動を取るようになり、11月8日、行家は平家追討の任を受けて出陣した。
行家の率いる軍は、わずかに270騎である。九条兼実は、その数の少なさを不審がっている。
行家は状況がわかっていない。
行家や近江源氏、摂津源氏は確かに義仲の家人ではなく、義仲を盟主としているだけだが、いかに義仲が京でへまをしようと、彼らに義仲の代わりが務まる訳ではない。
義仲の政権は、義仲の軍事能力に大きく依存しているのである。
彼ら義仲の盟友が義仲をないがしろにし、あまつさえ義仲に取って代わろうとしたところで、食糧不足が深刻な京を、義仲以外が維持できるとは思われていない。
特に行家はいくさに弱いので定評がある。その行家が、義仲の勢威が弱まったからといって自立性を強めても、人が集まるどころかかえって人は離れていくのである。

義仲は、窮した。
窮した義仲は、後白河法皇に、「君を怨み奉る事二ヶ条」として、
1, 頼朝に上洛を促したこと。
2, 頼朝に宣旨を下したこと。
を「生涯の遺恨」であると痛烈に抗議した。
(義仲め、精神的に相当追い詰められておる)
後白河法皇は思った。

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