後白河法皇⑮

後白河は出家こそしておれども、僧としての位階は持っていない。
そこで、阿闍梨の位が欲しくなった。
阿闍梨になるには伝法灌頂を受ければいいが、後白河法皇は延暦寺から灌頂を受けたくはない。
そこで、園城寺より灌頂を受けようと思い立った。
天台宗の総本山は延暦寺だが、天台宗にはもうひとつ総本山がある。
それが園城寺である。
園城寺は壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の皇子大友与多王が建立した寺院で、天智天皇、天武天皇、持統天皇の三人の天皇の産湯を使った井戸があるとの言い伝えから、一般には三井寺と呼ばれる。
延暦寺が山門と言われるのに対し、園城寺は寺門と呼ばれ、延暦寺と対立していた。
後白河法皇の園城寺への接近に危機感を募らせた延暦寺は、末寺の荘園の兵を動員し、園城寺を焼き討ちする構えを見せた。
後白河法皇は僧綱を派遣して延暦寺を譴責し、平家の軍事力に頼るために、清盛を福原から呼び出そうとした。
しかし、清盛は来なかった。
後白河法皇は、灌頂を受けるのを諦めざるを得なかった。
(ーーどうにもうまくないな)
後白河法皇は思った。このままでは世に法皇があることを忘れられてしまいそうである。
毎年5月に、清涼殿で金光明最勝王経の講会を開くことを最勝講という。
最勝講には、東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺の僧僧を呼び、朝夕2回、一巻ずつ講じていく。
しかし後白河法皇は報復として、この最勝講に延暦寺の僧を呼ばなかった。
このような後白河法皇を、高倉天皇がとりなしたが、後白河法皇は耳を貸さない。
高倉天皇は19歳になり、政治への意欲が強くなっていた。
(これで帝に皇子が生まれたら事よ)
高倉天皇に皇子が誕生すれば、高倉天皇の正統性は益々高まる。特に徳子に皇子が生まれれば、平家の力も高まり、後白河法皇は完全に排除されてしまう。
(摂関家領を清盛から取り上げるまで、時間を稼がねば)
とそんなことを思っていたところ、徳子が懐妊したとの噂が入ってきた。
どうやら、懐妊は事実であるらしい。
後白河法皇は、深くため息をついた。
(ーーこれはまたしばらく、平家の思うままにさせるしかないようじゃ)
後白河法皇は徳子を養女にしている。
後白河法皇も安産祈願をすることにした。
治承2年(1178年)11月12日、徳子は無事に皇子を出産した。
すると早速、清盛から皇子の立太子の要請がきた。
(清盛の気の早いことよ)
後白河法皇はやむなく、九条兼実に皇子の立太子について諮問した。
(日頃政治に辛辣な兼実なら、立太子を止めるやもしれぬ)
ところが、
「2歳、3歳で立太子の例は良くなく、4歳では遅い」
と兼実は言って、年内の立太子を示唆したのである。
(兼実め、清盛に媚びおった……)
摂関家も必死なのである。摂関家領を返してもらうために。
後白河法皇は、生まれたばかりの皇子の立太子を認めることにした。
12月9日、皇子は言仁と命名され、親王宣下が行われた。
15日、親王の立太子の式が行われた。
場所は六波羅である。
新しい東宮は、平家のものであった。
平家の担ぐ神輿であり、平家の権力の象徴だった。東宮坊も平家一門で固められた。
後白河法皇は何をしていたか?
実は翌治承3年(1179年)3月に、西八条の清盛の屋敷を訪れて、厳島巫女内侍の舞を見物していたのである。翌日には院御所で同じ舞を見物した。
後白河法皇の権力維持の思いの強さというか、節操がないというか。
(今は清盛に取り入らねば)
その後白河法皇の頼りは2人いる。
一人は関白で藤原氏の氏長者の松殿基房。
もう一人が、清盛の嫡男の平重盛である。
これまでは、表向きは清盛と同調していないように見えても、裏ではしっかり清盛の意向に沿って動くことが多かった重盛だが、鹿ケ谷の陰謀事件からは院政派に転じたのである。
というのは、重盛の妻が鹿ケ谷の陰謀事件で遠流の上殺害された、藤原成親の妹だったからである。
鹿ケ谷の事件以降、重盛は参内することも稀になっていた。
その重盛は、病に伏していた。
重盛は2月、東宮の百日祝に参加したが、その後病になった。
3月には熊野詣でをして後世のことを祈ったが、その後吐血して病状が悪化、5月25日には出家して浄蓮と名乗った。
6月17日、摂関家領預かっていた平盛子が死んだ。
21日、後白河法皇は重盛の見舞いに六波羅の小松殿を訪れた。
(これは死期が近そうじゃな)
衰弱した重盛の顔を見て、後白河法皇は思った。
重盛の身を心配しての見舞いだが、後白河法皇は、胸中では別のことを考えていた。
言うまでもなく、現在清盛の手中にある摂関家領を返還させることである。
だが、清盛も手をこまねいていた訳ではない。
清盛は、非常の措置を取ろうとした。
死んだ盛子は、高倉天皇の准母でもあった。
この縁によって、摂関家領を高倉天皇が相続するというものである。
このようなことをするのも、本来の相続者であるべき近衛基通が氏長者でないからで、基通が氏長者になった暁には返還されるというものだった。
それにしてもこれでは実質相続の手続きであり、遺産の一時的な管理人を決める手としては不自然である。
松殿基房は、氏長者として摂関家領を相続する権利があると、後白河法皇に訴えた。
(基房の言うことも一理ある)
しかし、本来は近衛基実の嫡男として近衛基通が相続するのが正しい。しかし氏長者を差し置いて、基通が膨大な摂関家領の大部分を相続するのも考えものである。
(反撃の時は来たな)
後白河法皇は、一旦高倉天皇が預かった摂関家領を取り上げ、自らの管理下に置いた。
もちろん、基通が氏長者になるまでの暫定措置である。
これで済めば、高倉天皇が預かるより公正であった。
とにかくこうして、清盛は長年の財源であった摂関家領を失ったのである。

7月29日、平重盛薨去。
後白河法皇の打つ手は、これだけにとどまらなかった。
10月9日の除目で、後白河法皇は死んだ重盛の知行国であった越前を没収し、院分国とした。
「入道(清盛)ニモ、カクノ仰セモナク」
と、後白河法皇はしれっとしたものである。
平家の牙城の一角を切り崩したのだが、こういうところ、後白河法皇は情がない。
が、悪い手ではない。ここまでは。
この時、松殿基房の三男の松殿師家が権中納言に任官されたのである。
松殿師家、わずか8歳。
清盛の推挙した近衛基通には、何の沙汰もなかった。
近衛基通には、清盛は念を入れて娘の完子を嫁がせていた。
基通でさえも清盛の息のかかった者であり、この際松殿基房を自分のシンパとし、藤氏長者を基房から師家に相続させ、摂関家領も師家に相続させることを示唆したのだった。

後白河法皇は急ぎ過ぎている。
つい最近まで追い詰められていたのに、いかに逆転のチャンスとはいえ、こうも急いで、しかも明確に敵対者に意図を伝えてしまっては、反発を生むのもやむを得ないだろう。

11月14日、清盛は数千騎を率いて、福原から京に向けて出発した。
この日は豊明節会である。
豊明節会とは皇位継承に関する行事があった時に行われる大嘗祭の3日後に行われる饗宴である。
当然、宮中の者は皆酒を飲んでいる。
念の入ったことである。この日を狙わなくても、京には平家に対抗できる軍事力などはないというのに。
この清盛の念の入れようは、軍事的な理由というより、清盛の心理的なもののようである。
平家は諸国からも軍勢を集め、京は平家の軍兵で溢れ返った。
15日、松殿基房、師家父子が解官され、近衛基通が関白、内大臣、藤氏長者に任命された。
清盛の強硬姿勢に驚いた後白河法皇は、信西の子の静賢を派遣し、
「以後、政務には干渉しない」
と、六波羅の清盛に申し入れた。
京の者達は、これで清盛が後白河法皇と和解するのではないかと思った。誰もが臣下の身で、法皇に手を出すとは想像できなかった。
しかし、平家の強硬姿勢はまだ続く。
16日には、覚快法親王が天台座主を罷免され、明雲が天台座主に復帰した。
そして17日には、太政大臣藤原師長以下公卿8名、殿上人、受領、検非違使等31名、計39名が一斉に解官となった。
この中には平家一門の平頼盛もいた。また後白河法皇が院分国とした越前には、藤原季能が越前守として任官されていたが、藤原季能も清盛の次男の基盛の娘を妻としており、平家の縁者であった。
そして人事により、平家の知行国は17か国から32か国となった。
「日本秋津島は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」
と『平家物語』にあるように平家が日本の半分を支配するようになったのである。
これは平家が失った摂関家領を補って余りあるものだった。そして正式に摂関家領を相続した近衛基通も、清盛の自家薬籠中の物となっている。
18日基房は太宰権帥に左遷、配流された。
これらは全て、高倉天皇の宣命、詔書によってなされた。典型的な軍事クーデターでありながら、綸旨に院宣といった、律令からかけ離れたものではなく、徹底的に律令的な手続きが取られた。

20日、後白河法皇は法住寺殿から鳥羽殿に身柄を移された。
鳥羽殿には静賢などの信西の子らと、2、3人の女房以外は出入りを禁じられた。
こうして、古代の山背大兄王が蘇我入鹿に殺害されて以来、536年ぶりに、臣下の手で皇族に危害が加えられたのである。

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