後白河法皇⑲

平宗盛は治承5年(1181年)8月、平貞能を鎮西(九州)に、平通盛と経正を北陸に派遣した。
この2つの作戦のうち、より重要性が高いのは、より京に近い北陸の鎮定である。
しかし、兵力が足りない。
宗盛は城資職を越後守、藤原秀衡を陸奥守に任じた。
国司は、中央の貴族または武家が任じられるものであり、地方の豪族が任じられるものではなかった。九条兼実はこの人事を「天下の恥」とまで言っている。
しかし、宗盛は情勢の変化に応じる努力をしていたのである。つまり地方武士と中央の平家との間に格差を設けず、地方武士の利益を計る方針にシフトしようとしていた。
しかしその努力が足りないか、もしくは既に手遅れになってしまっている。
城資職は横田河原の戦いで小勢力に落ちてしまっており、国司任官による権威づけをもってしても大勢を挽回することはできなかった。藤原秀衡は、陸奥守にされても中立を維持した。
14日に北陸追討の宣旨を受け、通盛は越前に、経正は若狭へと向かったが、通盛は越前水津で敗れ国府を失い、経正は若狭国境を越えることができず、北陸道は反乱軍の手に落ちた。また貞能も兵糧が欠乏して九州まで行くことができず、備中に留まる有り様だった。
10月には宗盛は、知度、清房、重衡、資盛を北陸道に、維盛、清経を東山道に、熊野に頼盛の二人の子を派遣するという大規模な遠征計画を立てるが、結局延期を繰り返して沙汰止みになった。
宗盛は、政治では多少の見るべきところはあったかもしれないが、軍事では失敗続きである。
平家の軍事作戦が失敗続きなのは、畿内に兵糧が不足しているからで、そのたびに現状を打破するために大規模な軍事作戦を立てて沙汰止みになるのを繰り返している。しかし大規模な軍事作戦を立てても、兵糧がないのである。
東山道に維盛や清経などを送ろうとしたのは、宗盛の兄の重盛の小松家が、宗盛の地位を脅かす危険があるからである。平家の危急存亡の時に、平家の内部事情で軍事作戦の人選をする癖が宗盛にあった。
また平家で最も軍事に長じているのは、連戦連敗の中で唯一、墨俣川の戦いで勝ち星を挙げた重衡だが、宗盛はこの重衡を有効に活用していない。
重衡を北陸道に派遣するなら、総大将として派遣すればいいのだが、宗盛はそうしていない。
現状総大将として戦えるのが重衡だけである以上、重衡だけに軍勢を与えればいいのだが、重衡が新たに力を持って、宗盛の地位を脅かすのを恐れているのだろう。こういう点が、重要な場面では必ず弟の義経を起用した源頼朝と大きく違う点だった。

11月25日に、徳子に院号宣下が下った。以後、徳子は建礼門院となる。
女院になれば、その地位は上皇に準ずるので、我が子であっても天皇とは離れて暮らす。
後白河法皇が、徳子と安徳天皇を平家から引き離すための策略である。
後白河法皇は、天皇の日常生活の場である清涼殿に登ることを許された、殿上人の人選を自ら行った。
既に後白河法皇は、平家が都落ちする可能性を考慮に入れている。
その時に安徳天皇が平家に連れ去られないようにと、工夫を凝らしているところだった。
養和2年(1182年)3月には、院の近臣の藤原光能、藤原定能、高階泰経が元の官職に復帰した。
(うまい具合に平家を操らねば)
平家の悩みは兵糧であることはわかっている。
諸国の兵糧提供に協力すれば、後白河法皇は九条兼実のような、院政の不支持派に対し優位に立つことができる。
後白河法皇は院宣を発して平家の兵糧米徴収に協力するが、折しも打ち続く飢饉のため、徴収ははかどらなかった。
8月、後白河法皇は自身の第一皇女の亮子内親王を安徳天皇の准母とした。
准母とは、天皇の生母でない女性が母に擬されることで、堀川天皇が践祚の際に生母と死別していたことから始まる、比較的新しい制度である。生母が生存していても、身分が低すぎたり、生母が女院になっている場合にも、准母が立てられた。
これまで、安徳天皇の准母は、近衛基通の妹の近衛通子が立てられていた。
つまり平家の息のかかった准母だったが、ここにきて、後白河法皇は安徳天皇を操作しやすいように自分の皇女を准母にしたのである。
(だが、余には武力がない)
と、後白河法皇は思った。
平治の乱の時は、後白河法皇と二条天皇は、自分の意志で、乱の首謀者の藤原信頼の元を逃げ出して、清盛に大義名分を与えた。
しかし、安徳天皇はまだ5歳でしかない。自分に都合が良いように教育するにも、まだ幼すぎた。
(成果が出るまで数年かかる。それまで平家は京にいてくれるのか)
安徳天皇が自分の意志で平家の元から逃げられるように成長する前に源氏の軍勢によって平家が都落ちすることがあれば、平家はその武力をもって、安徳天皇を連れ去っていくだろう。
(とすればここは、源氏が力をつけすぎないように牽制することだが、この無秩序の中ではたしてそれができるかーー)

養和2年になると、飢饉により、源氏も派手な軍事行動はできなくなった。
木曽義仲は以仁王の遺児北陸宮を擁し、平家追討の大義名分を手に入れた。また尾張、三河を失った頼朝、義仲の叔父の行家が、頼朝に所領を求めて拒否されたため、頼朝と対立し義仲の元に身を寄せていた。
義仲は信濃から北陸に勢力を広げていたが、この年は目立った軍事行動はできなかった。
甲斐の武田信義も動けないことでは同様であったが、甲斐から駿河、遠江を抑える武田ははからずも、頼朝が平家の勢力圏と直接に接しないための防波堤の役割をはたしており、平家の軍事進行に対する緊張感を持ち続けなければならなかった。このことが、武田に自立することの困難さを感じさせた。
そして源氏の棟梁を辞任する頼朝は、武田も義仲も、独立した勢力として長く放任する気はなかった。頼朝は武田と義仲を下風に立たせる機会を狙っていた。

その時は、翌寿永2年(1183年)に訪れた。
2月、頼朝は叔父の志田義広と足利忠綱を野木宮合戦で破った。
志田義広は義仲の元に身を寄せた。
しかしそのことで、義仲は頼朝との関係が悪化した。「我が敵の義広を匿うのか」ということである。
義仲は、頼朝と対立する気はなかった。
義仲は、嫡子の義高を鎌倉に人質に送ることにした。
この点は頼朝もさる者で、義高を頼朝の娘の大姫の婿という名目で、義高を迎え入れた。
こうして、義仲を下風に立たせることに成功すると、武田も頼朝と協調路線を取るようになる。

一方、宗盛はようやく、的をひとつにするということができるようになった。
多方面作戦を止めて、北陸のみに的を絞ったのである。
越後の一部の勢力に限定されているとはいえ、北陸には城資職がいるから、はるか越後まで進撃しなければならないにせよ、地元の勢力と連携ができるという点で、有効な戦略ではある。
総大将は平維盛。この点が宗盛の人事の至らないところだが、本来宗家であるべき重盛の小松家の意向もあるのだろう。小松家の維盛がリスクを背負うことで、小松家が平家の中で、宗盛に次ぐ立場なのだとはっきりさせる狙いがあった。
宗盛はこの時期に、内大臣を辞任している。
理由は不明だが、このいくさに負ければ、内大臣には復帰しない意志表示なのは確かだった。リスクを負わない宗盛に、小松家をはじめとした平家一門が業を煮やして、とりあえずこのような措置を取ったのではないか?
しかし人事において鮮やかな冴えがなかったとしても、平家が本気なのは確かだった。
4月17日、軍勢が京を出立した。
兵力は100000騎。
兵糧は、元からなかった。
だから兵士達は各地で狼藉、つまり略奪をして兵糧を集めながら進軍した。
ひどい話だが、実際これしか方法はなかっただろう。
もっとも、100000騎というのは兵力が多すぎる。
古今東西、征服戦争というのは、多くても数万規模で行われる。100000を越えると負けることが多いというのが古今を通じたセオリーである。
理由は兵糧が調達できないからで、国許から兵糧を送っても輸送費がかかりすぎて維持することができない。
これは豊作の時でもそうである。ましてや飢饉の時の大軍の派遣は自殺行為である。
また、このような略奪を繰り返すやり方は、そう何度もできるものではない。
戦争で略奪が必ず不利になるとは言わないが、略奪が常態化して民心がなつくことはない。
つまり平家平家は越後まで再征服しなければ、大軍もろとも平家一門がが瓦解するという、リスクの高い戦略である。しかも一度限りの大作戦であると覚悟しての行動で、負ければ都落ちも考慮しなければならない。
各地から狼藉停止の訴えが殺到したが、宗盛は耳を貸さなかった。

後白河法皇は、軍事のことはわからない。
信西がいれば、保元の乱の時のように見通しを立てただろうが、現在、後白河法皇の周囲にいくさのわかる者はいない。しかし、
(平家は、負けるやもしれぬ)
と後白河法皇は思った。
平家が負け、義仲が上洛した場合、義仲に顔の立つようにしなければならない。
宗盛から源氏追討の宣旨を要請されたが
「源頼朝、同信義、東国北陸を虜掠し、前内大臣に仰せ追討せしむベし」
と、宣旨で義仲について言及するのを避けた。
宗盛はそれで満足するしかなかった。
(帝は平家に連れられて、京を離れて御幸遊ばされることになるやもしれぬ、残念じゃがそうなった場合、高倉院にはまだ他に皇子がおわしたな)
後白河法皇は思った。

この記事が参加している募集

#歴史小説が好き

1,214件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?