清和源氏の興亡④

この時代の奥州の俘囚には、みっつの特徴がある。
ひとつは、都の勢力に対する非協力性である。
もうひとつの特徴は、都の人物(それも高い官位を持つ者)と関係ができると、徹底的に下風に立ってしまうことである。
みっつ目はふたつ目の性質の裏返しのようなもので、一端京の勢力と戦う時は徹底して戦うことである。
また、都の者が俘囚に接する時も、ひとつの特徴がある。
それは、俘囚の働きに対して絶対に、直接には報いないことである。約束があったとしても全て裏切る。

清原氏が参戦してからの、安倍氏の急速な衰退についてだが、『陸奥話記』はひたすらに頼義を顕彰し、安倍氏を貶めるのに意を用い、文学性を著しく欠くだけでなく、合戦のエピソードも信用できない。

清原武則は謙虚で、前九年の役では実質的な総大将として振る舞ってもおかしくないところを、あくまで総大将の頼義を立てていった人物として描かれている。
武則は、頼義の言葉に合わせて将兵を鼓舞した。
「今の官軍は勢いは侵略する水火の如く、これ以上の開戦の機会無し」と、頼義の言葉に同調した。
小松柵は、難攻の柵である。
南を激流、北を断崖絶壁に挟まれている。
安倍貞任の弟宗任は、兵800騎を率いて、柵から打って出た。
頼義も、直属の部将達を宗任に差し向けた。
両者奮闘したが、両軍共に疲れが出た頃、連合軍は、20名の兵に断崖絶壁を登らせて、背後の攪乱を図った。
安倍軍は、大混乱に陥った。宗任は小松柵を放棄して落ち延び、連合軍は初勝利を飾った。

ところが、この後長雨が降り、連合軍は食糧が不足した。
これを聞いた貞任は、官軍(連合軍)への奇襲を思い立ち、康平5年(1062年)9月5日、8000の兵を率いて、官軍の本陣のある屯岡八幡宮に攻勢をかけた。
突然現れた安倍の大軍に驚く頼義。
しかしここで、物語は講談的、つまり現実離れした展開をする。
武則は、「我が軍の勝利、おめでとうございます」と、頼義に戦勝祝いを述べたのである。
訝しがる頼義に、
「地の利のない官軍がこれ以上六郡を深く侵入しても、被害を大きくするだけである。そんな中で、安倍軍の方から我らの前に飛び込んできてくれた。これは賊軍を討ち果たす絶好の機会である」
と武則は答えた。頼義もなるほどと思い、四方隙の無い「常山蛇勢の陣」を敷いて安倍軍を迎撃した。
まるで上杉謙信の、川中島での車懸りの陣、または『三国志』の天才軍師諸葛孔明が繰り出す怪しげな陣形のようである。また奇襲を受けたというのに、清原武則もよく悠長に話す暇があったものである。
「奇襲を受けた」というが、官軍は小松柵を落とした後、屯岡八幡宮まで引き返している。
ホームグラウンドで奇襲を受けたとは考えにくいので、頼義は余裕を持って貞任の攻撃を受けたのだろう。
この後、官軍と安倍軍は6時間もの間激闘を続けたという。
なお、この戦いでは、頼義の次男の義綱も参陣して戦っている。義綱は加茂神社で元服の儀を挙げたことから加茂次郎と呼ばれている。
6時間後、貞任の軍はついに敗走を初めた。
この後、貞任軍の追撃に入るのだが、この追撃が奇妙である。
頼義は、清原武則に貞任の追撃を命じたのである。そして頼義は官軍、つまりこの場合は清原氏の兵を除いた、源氏武士団と国衙の兵を、頼義自身が厚く労ったという。
こういう時は、自ら貞任を追うものであろう。将兵のねぎらいは、追撃をやめた後でいい。
しかしこの頼義の振る舞いに将兵は、「かつて唐の太宗が自らの髭を焼いて、傷ついた将兵の膿を啜ったという話があるが、我らが将軍の気遣いもそれ以上ではないか。今将軍のために死んだとしても何ら恨むことはない」
と感激したというのである。清原氏の軍が戦っているのに、戦わない者達の自画自賛。
頼義は、清原氏に名簿を差し出して加勢してもらったのではなかったのか?
頼義が清原氏に名簿を差し出したのは、間違いないと思う。そうせずに頼義が清原氏を味方にできたなら、もっと早くに前九年の役は終了できたはずだから。
つまり、名簿を差し出されて上位に立ったとしても、奥州の俘囚は大宮人に接すると、自然と下風に立ってしまう何かがあるとしか、この場合いいようがない。
武則の兄光頼が、自分で軍勢を率いなかった訳である。

翌6日、頼義は衣川関を攻めるために高梨宿に着陣した。
しかしここにあるのは、ただの柵ではなく関、つまり関所である。
特に衣川関は中国の函谷関に比される難所だった。
官軍は攻めあぐねた。
そこで武則は、清久という部将を呼んで、関の中に入り込んで火攻めを行うように命じた。
『陸奥話記』で、安倍軍はこういう策に弱いように描かれている。反対に官軍は、策を施せば必ず成功するように描いている。

清久は、命令通りに実行し、関のあちこちに火をつけたが、そもそもそんな簡単に関の中に潜入できるはずがない。この時代であっても城であり、要塞なのである。
おそらく連日連夜関を攻めて安倍軍が疲れきったところでその隙を突いて関に侵入したか、または連日攻めている中で、ある日夜になっても攻めるのを止めず、火矢で関に火がついて関が落ちたのかもしれない。
『陸奥話記』の記述を見ると、頼義は「きれいに勝った」と印象つけようとしている。「きれいに勝った」とは、用兵、戦術が巧みで、味方の犠牲が少なかったということである。
意図して「きれいに勝った」と思わせようとしていると考えると、実際はその逆で、双方に犠牲が多い戦いが繰り広げられたのだと思われる。「きれいに勝つ」ような策などもない、夜襲による衣川関の落城だったのだろう。

この戦いの最中、

「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」

と貞任が上の句を歌うと、

「衣の館は ほころびにけり」

と、八幡太郎義家が下の句を歌った。
安倍貞任は、単なる蝦夷でも俘囚でもない、和歌も歌えるのだというところを見せたかったのだろう。
そういう貞任の気負いに、義家は答えた。しかしそれが「衣の館は ほころびにけり」と、安倍氏を見下すものだった。
敗走の最中で、歌を歌う余裕などないだろう。しかし俘囚も歌を詠めたと、俘囚を庇うように見せかけて、さらに貞任を貶めるところなど、実にいやらしい。
この戦いで、貞任は多くの郎党を失い、鳥海柵に入った。

11日、官軍は貞任を追って鳥海柵まで来たが、貞任は既に相当の戦力を失っていたのか、鳥海柵を放棄して厨川柵まで後退していた。
この鳥海柵での、『陸奥話記』の「創作」がふるっている。
人がいなくなった鳥海柵には、大量の美酒が残されていたというのである。まるで敗北した貞任が、頼義の勝利を祝っているかのようだった。
頼義は初め毒が入っているのではないかと警戒したが、毒見をして、その心配はないとわかったので、将兵に振る舞うことにした。
ここで、頼義は武則相手に語り始める。
「貴殿らの働きによって、鳥海柵に入ることができた。今の余の顔色を見てどのように感じるか?」
と、頼義は問う。
頼義は、武則に悪感情は持っていない。いや、頼義にとって、武則は絶対に欠かすことのできない何かであり、武則を失えば、頼義は頼義でなくなってしまう、そういう存在のようである。
「将軍は長年に渡り、皇家のために忠節を尽くしてこられました」
と、武則は答える。「風の中で髪をくしけずり雨で髪を洗い、蚤や虱のたかった甲冑をお召しになり、官軍を率いて苦しい征旅を続けられました」
頼義はこういう、慰めの言葉が欲しかったのだろう。
「既に開戦より10余年の歳月が過ぎておられる。天地の神仏は将軍の忠孝を助け、我が将兵達は皆、将軍の志に感じ入っております。今賊軍が敗走したことは、溜めていた水が堤を切って流れ出したようなものです。私は将軍の指揮に従っただけです。どうして私に武勲などありましょうか」
頼義は、この勝利が自分の武勲でなく、清原氏の圧倒的兵力によるものと思われることに、強い不満と不安を感じている。不満と不安は、結局それが真実であるからであり、清原氏にも源氏の家臣団にも、頼義の武勲ではないと思われているということである。
「ところで、将軍のお姿を拝見しますと、白い御髪が半ば黒に戻っているように見えます。厨川柵を落として貞任の首を取ることができれば、将軍の御髪はきっと漆黒となり、痩せられたお体もふっくらとなされるのではないでしょうか」
頼義は、「失った時間を返せ」と思っているのである。この時、頼義は75歳である。頼義の悔しさは、いたずらに時間を失ったことことに収斂している。しかしそれは武家の棟梁としてあるまじき姿である。
頼義は、武則の苦労をねぎらい、武則に功も知略もあることを褒めて話を終えている。

なおこの間、出羽守源斉頼が小松柵から出羽へと逃げた安倍良照と、その甥正任を捕らえている。
15日、官軍は厨川柵に到達した。
厨川柵の戦いのエピソードもまた、余計な話が多い。
貞任は雑仕女に歌舞を舞わせ、余裕のあるところを示した。
この挑発に頼義は大いに怒り、遮二無二柵を攻めたが、官軍はいたずらに被害を増すだけだった。

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