伊達政宗⑧

「何じゃと…」

大崎合戦の敗報、黒川晴氏の寝返りを聞いて、政宗はすぐにはこれ以上の言葉が出なかった。

「左馬頭(黒川晴氏)は我が一門じゃ、なぜ…」

さらに山形の最上義光が、伊達領の黒川、志田郡の各所を攻撃した。

政宗と義光は伯父甥の間柄ながら非常に意識し合っていたが、二人が交戦したの゙はこの時が初めてである。

「斯波一門の反抗でございましょう」と小十郎は言った。


若干の説明がいる。

南北朝時代、奥羽は南朝の北畠顕家が支配していた。

北朝の足利氏は、足利一門の斯波氏から奥州管領を派遣して対抗した。それが斯波家兼で、家兼は大崎氏の祖となり、家兼の子の斯波兼頼が山形に派遣されて羽州探題となり、最上氏の祖となる。

大崎氏も最上氏も、足利一門として奥羽では尊崇された。

しかし大崎氏も最上氏も、国人の力が強い奥羽では必ずしも強勢ではなかった。大崎も最上も、戦国期には自立した勢力として立ち回らざるを得ず、その自立さえも時として危うく、稙宗の代には大崎も最上も、伊達に服属さえした。

その大崎、最上が、奥州で最も尊貴なその血をもって「我らは斯波一門ぞ」と主張しているのが、今回のいくさだと小十郎は言うのである。

「じゃが左馬頭は祖父の代から伊達一門で、大崎の血ではないぞ。それに斯波一門といっても、もう室町幕府はないぞ」

政宗は言った。

政宗の言う通りで、室町幕府は元亀4年(1573年)、織田信長が足利義昭を京から追放することで滅亡している。今から15年前のことである。

それどころか、織田政権を継承した豊臣政権の影響が奥羽にまで及んでいる時代である。

「だからこそ、大崎、最上は『我らここにあり』と示したいのでござりましょう。蘆名が越後入りをすることで『我らここにあり』と示したように」小十郎は言った。

長江勝景と泉田重光は大崎によって監禁され、勝景は大崎に寝返ることで釈放されたが、重光は頑として寝返ることを拒んだ。

「安芸(泉田重光)が頑張ってくれておるわ」

政宗は気弱そうに笑って首を振った。

(本当は怒りたいのだろう)

小十郎は思った。泉田重光のために大崎合戦は敗北したのだから。

「安芸殿を救うことは、ご家中の殿への気持ちを新たにし、ご家中皆殿を慕うようになるでございましょう」

小十郎は思った。ここは政宗が、家臣に仁慈の態度を示すべき場面だと思った。

(ここは殿が徳を積み、家臣の心を得るべき時だ。来たるべき時のために)

さらに大崎合戦の敗報を聞いて、蘆名義広が4000の兵を率いて、伊達領に侵攻してきた。

先鋒は大内定綱。定綱は苗代田城を攻め落とした。

「室町幕府の亡霊に攻め立てられておるようじゃ…」政宗が言った。

蘆名勢は郡山城、窪田城、高森城、本宮城を攻めた。

小十郎は大森城主として、二本松城の伊達成実、宮森城主の白石宗実と連携して、蘆名勢を防いでいた。小十郎、成実、宗実の兵と合わせても、600の兵しかいない。

そうしているうちに、4月、小手森城主に任命されていた石川光昌が伊達家から寝返って相馬義胤についた。

石川光昌の石川家は、政宗の祖父の石川昭光が石川家の養子に入っている。

光昌の石川家は分家だが、本家が伊達家から養子を取ったので、光昌も伊達家に服属した。

もっとも先の人取橋の戦いでは、石川昭光は佐竹に味方したが、光昌は伊達家についた。しかし光昌は白石宗実の与力とされたことに不満を持ち、相馬に寝返った。

そのため政宗は相馬の備えに回らざるを得なかった。

「なぜ我らからのみ裏切り者が出るのか」

と政宗は溢した。

「殿、我らからのみ裏切り者が出ているのではござらぬ」

鬼庭綱元が言った。「大崎にも蘆名にもこちらに寝返る者はおり申す。しかし我らがうまく機を捉えられぬゆえ、今苦しい立場におるのでござりまする」


(敵は城を落とす気がない)

と、小十郎は思った。

蘆名の4000は少ない軍勢ではないが、4000で3つの城を一気に落とすの゙は無理である。

城を落とすなら、ひとつずつ囲んで兵糧攻めにするか、力攻めで城が落ちるまで攻め立てるかしなければならない。しかし蘆名はそういうことをしない。

だから伊達勢は数の上では劣勢なのに、2ヶ月もの間防戦できている。

(蘆名は目的が絞られていない。単に力を示しているだけか?)

あり得ることである。越後の新発田重家が滅び、越後に武威を示せなくなったから伊達に攻勢をかけたが、本来勝てる相手と思っていないから、城をひとつひとつ落とすという地道な策を取らずに、ただ力攻めをして落ちなければ引くということを繰り返しているだけなのかもしれない。

そんな時である。成実が大内定綱を寝返らせてきたの゙は。

成実は伊達郡の保原、墾田などの所領を与えることを条件に、定綱に帰参の話を持ちかけた。

定綱は蘆名では冷遇されていた。

また蘆名は、義広が佐竹から連れてきた家臣と、蘆名の旧臣の間で対立が深刻化していた。家中の分断を伊達への攻撃で一時的に解消するだけの蘆名に、定綱は見切りをつけていた。さらに定綱の弟の片平親綱も定綱と共に伊達家に帰参したが、親綱の居城片平城は蘆名攻略のための要衝だった。

加えて塩松(四本松)には旧大内、畠山の旧臣が多くおり、その浪人衆が反抗していた。そのため定綱が帰参すれば、彼ら浪人衆は定綱を慕って収まるという計算もあって、定綱には随分と有利な条件だった。

定綱は小さな国人だが、小いくさには強い。

蘆名勢は、軍議もろくにまとまらず、伊達側の城を攻めては、抵抗が強いと見ると撤退を繰り返すのみだということを知っていた。

蘆名勢は定綱を討つために本宮城方面に向かったが、定綱は1000のみの兵を率いてこれを撃退した。

政宗はこの機に乗じた。

政宗は動かなかったが、秋保に分隊を派遣し、最上衆112人の首を取ってきた。


(古い体制の抵抗が限界を超えようとしているーー)

と小十郎は見て、胴が震える思いがした。

定綱は戦国の小領主らしく、機を見るに敏である。

真田昌幸のような者と思えばいい。

定綱は小手森城で手勢を政宗によって撫で斬りにされ、抵抗できない巨大な力を感じたが、それでも心はその巨大な力にすぐには従えなかった。

それが苗代田城を落としたことで、定綱の憑き物が落ち、元の利害打算に長けた定綱に戻った。その定綱が帰参したことで、これまでの厳しい状況だった流れが変わるのではないか?と小十郎は思った。

5月2日、政宗は米沢城を出て大森城に入り、小手森城の石川光昌を攻めようとした。しかし梅雨に入り、雨のため小手森城を攻めることができなかった。

それでも政宗が小手森城を攻めれば、光昌は城を退去せざるを得なかっただろう。

しかし、ここでもうひとつ、事態を紛糾させる事件が起こる。

先に述べたように、田村家は舅の清顕が死んでからは、政宗と愛姫の清顕に子供が生まれて、その子供と当主に迎えるまでは当主不在ということにして、重臣達が伊達家と共同歩調を取りながら政務を見ていた。

ところが政宗の舅の田村氏では、政宗と愛姫の関係が不和だという噂が広まっていた。

政宗と愛姫の間に子供が生まれなければ、田村家は断絶してしまう。

それを心配したのが愛姫の母の清顕未亡人、於北の方だった。

於北の方は相馬氏出身である。

於北の方は、家中の相馬派の家臣と共に、相馬の助けを借りてお家再興を図ろうとしたのである。

於北の方からの知らせを受けて、相馬義胤は三春城への入城を強行しようとした。しかし田村家の重臣には田村月斎がいた。

田村月斎は清顕の大伯父である。生没年不詳だが、相当の高齢であったことは間違いない。田村家ではこの月斎の勢力が強く、そのため政宗は、一度は月斎の排除を検討したほどだった。

この月斎と、同じ重臣の橋本顕徳が伊達派として動いた。

義胤は三春城内に入ったが、月斎に鉄砲を撃ちかけられて船引城に撤退した。

しかし三春城への入城は諦めた訳ではない。

(危なかった)

と、政宗は思った。(一度は排除しようとした者達に助けられている)と、政宗は思ったからどうか。

政宗は早期に小手森城を落とす必要があると思い、雨天を衝いて大森城を出て宮森城に入り、小手森城の攻撃に取り掛かった。

小手森城はわずか1日で落ちた。

伊達勢の猛攻により、小手森城は500余もの首が取られるという、大内定綱の時以来の惨劇となった。石川光昌はこの時討ち死にしたと伝えられたが、それは誤報で、光昌は落ち延びて相馬義胤を頼った。

「急戦じゃ!」

政宗は、この機に戦果を拡大しようと思った。

政宗は17日に大倉城、18日には月山城、百目木城、石沢城を落とした。家督相続以来最大の快挙である。

(殿も博打をなさる)

と、小十郎は思った。政宗は手勢を出し切っているため、城攻めの最中に相馬が伊達勢の背後をつけば、相馬はその場では戦果を挙げられるのである。

が、相馬は動かない。

船引城にいる相馬義胤は、政宗の勢いを見て船引城から退去した。そして蘆名、佐竹、岩城常隆に援軍を要請した。

蘆名と佐竹はこれに応じたが、岩城常隆は元々田村領を狙っていたため応じなかった。それどころか岩城の家臣は、政宗に相馬が蘆名や佐竹と連携しようとしていることを伝えてきた。

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