伊達政宗⑤

「ーーそうか、左月は最後まで奮戦したか。あっぱれな最後であったな」

政宗は言った。「今佐竹どもはどの辺か?」

「日もくれましたゆえ、今日は来ないかと」成実が答えた。

熱のせいもあって、政宗はしばらく呆然としていたが、

「城守備を固めよ。城を見て回る」

そう言って、政宗は立ち上がった。

城内を巡回し、

「傷は痛むか?」

などと、将兵に声をかけて回った。

「ーー今夜中に兵数を数えよ」

と近習に告げて、政宗は寝た。

翌日、

(佐竹共は来るか)

と思って心の準備をしていたが、佐竹及び南奥州連合軍は、本宮城に攻めてこない。

(ーーなぜ攻めてこぬ?)

政宗は怪しんだ。

「申し上げます」

と、物見の者が戻ってきて報告した。「佐竹は陣を引き払って引き上げたとのことにかざりまする」

「なんと?」

政宗は驚いた。「理由は何じゃ」

「わかりませぬ」と、物見は答えた。

「大儀であった」

と政宗は言って、「引き続き調べさせよ」

と周りに伝えた。

しばらくして、「常陸の馬場城(水戸城)主の江戸重通が、佐竹の拠点太田を突くとの報あり、よって佐竹常陸介(義重)は兵を引いた!のことでござりまする」
と、物見の者が帰ってきて答えた。

当時、佐竹の拠点は水戸ではなく、その北の太田にあった。後に水戸光圀が隠居所とした西山荘のある場所である。

水戸は江戸氏が抑えていた。江戸氏は北条方で、水戸は常陸の中央部にあるため、江戸氏の動向によっては、常陸の大半を抑える佐竹は南北に分断される恐れがあった。

さらに、安房の里見義頼が常陸に攻め込むという報があったという。

佐竹は南奥州においては優勢であったが、この時期関東では必ずしも優勢ではなく、昨年天正12年(1584年)、北条と佐竹の間で行われた沼尻合戦では、合戦自体は引き分けにも関わらず、佐竹は下野国の長沼城を奪われている。

かといって江戸氏や里見氏が、政宗の味方をしたという訳ではない。

伊達家には上杉と和睦したため、関東では羽柴方と見られ、徳川家康と同盟する北条とは敵対していると見なされていた。江戸も里見も、佐竹と敵対しているが、それだけで伊達に味方するということは、江戸も里見もしない。

要は、噂が流れたのである。噂が流れるだけなら、江戸も佐竹も咎めはしないし、佐竹が不利になることはむしろ望ましいことである。

政宗は本宮城から岩角城へ、さらに小浜城へと移って、そこで年を越すことにした。

戦国期の政宗の特徴は、常に最前線に自らの身を置いていることである。特に今回は、伊達が南奥州の覇権を失うという非常事態である。最前線にいる必要があった。

しかしそれだけではなく、政宗は米沢に帰りづらかった。米沢には生母の義姫と弟の小次郎を中心に、反政宗派が形成されつつある。

反政宗派は、強権を振るおうとする政宗を警戒し、南奥州の土豪に離反された政宗を非難していた。

彼ら反政宗派をある程度納得させるには、二本松城を奪取する必要があった。

年若い愛姫は、突然自分が米沢城内で孤立してしまったので、動転して政宗をなじる手紙を毎回送ってくる。

政宗は煩わしくなり、家臣の飯坂宗康の娘を側室として気を紛らわしていた。

政宗は鬼庭左月の妻に、左月の隠居領分の知行与え、終生安堵する朱印状を書いて、左月の妻に送った。

年が開け、天正14年となった。

(儂は、これまで敵より多い軍勢でいくさをしていた。

政宗は思った。(今回儂は、自分が負けると思わずにいくさをしたのじゃな。しかし兵力が敵を下回ればやはり負けるのじゃ。圧倒的は兵力差とならぬように、配慮していくさをせねばならぬ)

二本松城の城主は、畠山義継が死んで、その遺児の畠山国王丸が継いでいた。

国王丸はまだ13歳だったが、一門衆の新城信常が指揮を執って、城を抜くことができない。

そのまま5月になった。

朝廷から勅使がやってきて、政宗を左京大夫に任命した。

「今頃来おったか」

と、政宗は小十郎に、吐き捨てるように言った。

去年、上杉と和睦し、秀吉にも使いを送ったのだから、秀吉の側から便宜を計らってくれれば、今頃はこんな苦労はしていなかったのである。

いや、実は去年来ていたのである。

去年の3月に、正親町天皇から信長によって焼き討ちされた延暦寺の根本中堂などの再建のための献金と引き換えに、美作守への叙任の打診があった。

政宗にとって、献金はできない額ではなかったが、代々左京大夫を称してきた伊達家としては、美作守では格下げになり、政宗は正式に辞退した。

この時朝廷の使者となったのが天台宗の門跡寺院である青蓮院だったが、青蓮院はこの時政宗が美作守の叙任を断ったのを、長い年月の間に忘れてしまったようで、江戸時代の享保7年(1722年)になって、この時の綸旨が当時の仙台藩主の伊達宗村に引き渡された。

江戸時代は朱子学が流行した時代で、当時の伊達家でも、政宗が叙任を断る訳がないと思ったようで、この綸旨の引き渡しにより、政宗がこの時美作守に叙任されたが、戦乱のために伝達できなかったのだと長い間誤認されていた。

当時の朝廷が、秀吉の意向無しに政宗に官位を与えることはありえない。要するに秀吉は「もっと働け」と政宗に言ってきたのである。

天正14年、上杉景勝は上洛し、正式に秀吉に臣従した。

秀吉は景勝が正式に臣従しない間は、景勝への援助も曖昧なままにしておいた。政宗が上杉と和睦することで、新発田重家の乱では景勝は優位に立ったが、輝宗の死から人取橋の戦いによって伊達家の南奥州支配が頓挫し、景勝の優位がいつまで続くものかは危ういものとなった。

今回の政宗の左京大夫叙任は秀吉と政宗の実質的な同盟であり、景勝が新発田重家の乱を鎮圧できるように、政宗に南奥州をうまくまとめておけということであった。

「おめでとうござりまする。これで奥州の大名達も伊達家に靡きましょう」

と小十郎は言った。

政宗としても、損な話ではない。

「だが、二本松城は獲るぞ」政宗は言った。

「ならば、そのように取り計らいましょう」

小十郎は、相馬義胤に仲介を打診した。

義胤をはじめ、南奥州の土豪達は、秀吉を背景にした政宗と、うまく歩調を合わせた方がいいと思うようになった。

「おお、左京大夫殿のために骨を折りましょうぞ」

と、義胤は快く仲介を引き受けた。

南奥州の諸勢力は、二本松城に助勢したり兵糧を提供したりしていたが、義胤の呼びかけにより、土豪達は二本松城への援助をしなくなった。

7月、畠山国王丸は二本松城を明け渡し、蘆名氏の元に亡命した。

政宗は他の奥州の諸勢力と和議を結び、米沢城ヘと戻ることとなった。

「よう戻った、長い間ご苦労であったの」

と、生母の義姫は、あいさつに伺候した政宗に対して言ったが、

「性山公(輝宗)を見殺しにしてこれでは、この1年、何の成果もなかったのと同じじゃ。やはり政宗は当主としての力量が不足しておるようじゃな」

と、陰では囁いていた。

愛姫は米沢城で孤立し、心細い思いをした上に、政宗が側室を持ったので相当機嫌を損ねていた。

そんな愛姫を政宗はなだめて、

「そなたには儂が留守の間、この家中を支えてもらわねばならぬのじゃ」

と言ったが、愛姫は聞かない。

「奥方様はまだ若うござりまする」

と、小十郎は言った。愛姫はまだ18である。

この年の11月、愛姫の父の田村清顕が死去した。

田村家は政宗と愛姫の間に子供ができるまでの間、伊達家と協調し、4人の家老が政務を見ることになった。


この間、秀吉は上杉景勝の他に毛利を傘下に収め、四国征伐を行って長宗我部元親を降し、越中に入り佐々成政を降伏させた。

前年に政宗に格別の援助をしなかった時は、秀吉は東に勢力を伸ばす意志がないことを、徳川、北条に対し示す必要があったが、もはやその必要がなくなり、家康の帰順を促すだけの段階となっていた。

天正13年7月には関白に就任し、天正14年9月には豊臣の姓を賜る。10月には徳川家康が上洛し、秀吉に臣従を誓った。

そして秀吉は、東が充分に安定したと見て、九州征伐を企図していた。


「この自由な時間がきな臭うございますな」

と、小十郎が言った。

秀吉と実質同盟を組んで、政宗が奥州で威を振るっている時間のことである。

「小十郎は、関白の九州平定についてどう見る?」政宗が聞いた。

「なんとも言えませぬが、それがしの知る限り、九州をひとつにまとめられたためしというの゙はござりませぬ」

と、小十郎は答えた。

九州だけではない。

鎌倉幕府以来、日本をひとつにまとめる政権というの゙は存在したことがない。鎌倉幕府にも室町幕府にも、支配できない地域というの゙は存在した。

中でも、九州は中央から遠い。

足利義満の頃に、今川了俊が九州探題として九州平定を任されたが、九州を完全に統一することはできなかった。

「ならば関白も、九州を統一できぬと思うか?」

「どうでござりましょう」

小十郎は、織田、豊臣の政権が、鎌倉や室町の幕府とは異質な政権だと思っている。

「関白殿が10万以上の大軍を率いても、九州に着くまで日数がかかり、また九州の制圧に日数を要し、その間の兵糧を九州で賄うの゙は無理があるかと思いまする」

と、小十郎は答えた。

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