後白河法皇⑭

近衛府の大将は、平重盛が既に右大将になっていたが、このたび重盛が左大将、宗盛が右大将に就任することになった。
武士が台頭して以来、武士は検非違使や弾正台など、武士にふさわしい官職に就いてきたが、近衛府の将官は公家が独占してきた。
独占どころか、出世コースであった。近衛府の大将から大納言、大臣へとなる公家は多い。
つまり、公家は軍事、警察などの官職は武士に与えたが、例え武力は持たなくても、『皇室は公家が守る」というのが公家の矜持だったのである。
しかし、重盛と宗盛がそれぞれ左大将、右大将になることで、平家は貴族の牙城をひとつ奪った。
(清盛にねじ込まれては、断りもできぬ)
安元3年(1177年)3月、後白河法皇は福原に行幸して千僧供養を行い、亡き滋子の菩提を弔った。

平家との関係は取り敢えず修復された。
(ふう、思うようにいかんわい)
後白河法皇にとっては、まだ平家の力は必要だった。
(あちらを立てればこちらが立たず、やれやれこの国の帝王は辛いものよ)
これで、高倉天皇の系統以外の皇子を皇位に就けるという、後白河法皇の目論見は後退した。
後白河法皇は、世の儚さを感じた。
去年の8月、六条天皇が崩御していた。
後白河法皇の孫で、前の二条天皇の忘れ形見だった六条天皇は、2歳で即位して、4歳で譲位し、12歳で亡くなった。
後白河法皇に皇子、皇女は多い。
六条天皇も、しばしば後白河法皇と対立した二条天皇の系統ということで、後白河法皇は冷たくあしらってきたし、高倉天皇も切り捨てようとした。しかし六条天皇の崩御に、後白河法皇は寂しさを感じたのである。
(我が子孫には、長寿と繁栄に恵まれて欲しいものだが)
しかし、後白河法皇の願いとは裏腹に、後白河法皇の子孫は次々と短命と不幸に見舞われていくのである。

ここで新たな問題が持ち上がる。
加賀国の目代の藤原師経は、後白河法皇の近臣西光の次男だった。
加賀国には白山比咩神社ががあるが、師経はその白山神社の鎮守寺である延暦寺の末寺を焼いてしまった。
3月28日、後白河法皇は延暦寺に配慮して師経を備後国に配流にするが、延暦寺は同じ西光の子で、加賀守の藤原師高の配流を要求してきた。
4月13日、延暦寺側は神輿を担いで京に乱入してきた。
(こういう時こそ平家の出番じゃ)
後白河法皇は、重盛に延暦寺に対して防御するように命じた。
重盛は出陣し、延暦寺の僧兵と交戦した。
しかし平家の兵の射た矢が、神輿に当たってしまった。
「仏罰が下るぞ」
「仏罰が下るぞ」
この時代、人は今よりはるかに迷信深い。
僧兵達の言葉で、平家の兵は士気が下がった。
「かかれ!かかれ!」
という重盛の声も空しく、平家はじりじりと後退していった。
14日には、高倉天皇と徳子が禁中を脱出し、法住寺殿に移ってきた。天皇と徳子が慌てて動座する様子は、「禁中の周章、上下男女の奔波、偏に内裏炎上の時の如し」と言われた。
「内持所(神鏡、八咫鏡のこと)も法住寺殿に移すべきではないか?」
という意見が院御所で出るほど、朝廷は狼狽していた。
結局神鏡は動かさないことに決まったが、神鏡の守りが必要だと思った後白河法皇は、平経盛に神鏡の守護を命じた。ところが、
「経盛は一所(天皇のこと)に候すべきの由、入道(清盛)申すところなり」と経盛は言った。
要するに、今回の延暦寺の強訴は朝廷側が不利と見て、これ以上の危険は犯したくないということである。
仕方なく、後白河法皇は源頼政を内裏に派遣して内持所を守護させたが、平家が尻込みしているのに、源氏に神鏡を守らせても無駄だろう。
(やむを得ん、ここいらが潮か)
後白河法皇は、延暦寺の要求を呑んで、藤原師高を尾張国に配流、神輿を射た平家の家人を禁獄にするという院宣を下した。

ついていない時はとことんついてない。
延暦寺の僧兵は引き揚げたが、4月28日、安元の大火が発生。
焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏に達し、実に京の三分の一が灰塵に帰すという大惨事となった。
後白河法皇は、気に入った近臣には甘い。息子が配流された西光の嘆きを受けて、
(山法師共め、このままにしておくものか)
と、当面叡山叩きに専念することになった。
5月4日、後白河法皇は天台座主の明雲を逮捕させ、翌5日には天台座主の地位を解任した。
「明雲は嘉応と安元の強訴の首謀者であり、朝家の愁敵、叡山の悪魔ぞ」
と後白河法皇は言って、取り調べを行わせ、さらに明雲の所領を全て没収した。
明雲の後任の天台座主には、後白河法皇の弟の覚快法親王を任じた。
15日、延暦寺の僧綱が「天台座主が配流された例はない」として赦免を訴えたが、後白河法皇は拒絶した。
公家は明雲に対し同情的だった。
公卿議定では、「謀反というべきではないのではないか」という意見が多く出たが、後白河法皇はその意見を「状況に対応できていない」として一蹴し、21日に明雲の伊豆に配流した。
ところが23日、護送される明雲を延暦寺の僧兵達が奪還した。
「なんということじゃ」
後白河法皇は明雲配流の責任者で、伊豆知行国主の源頼政を譴責した。
それだけではない、叡山武力攻撃の決定まで下したのである。
もちろん武力攻撃の主力は平家の軍勢だが、重盛と宗盛は「清盛の支持がなければ動かない」
と言って出動を拒否した。
後白河法皇は諦めなかった。
清盛を福原から呼び出して、平家の出動を要請した。
いつにない後白河法皇のただならぬ決意に、清盛も承諾せざるを得なかった。

どうもこの時期、後白河法皇は強引さが過ぎたようである。
院の近臣を直接狙っていないだけ、嘉応の強訴に比べれば延暦寺の要求は軟化している。先の興福寺の強訴で延暦寺が助けられたということもあるのだろう。
明雲が配流の護送の途中で奪還されたとはいえ、明雲は天台座主の解任、全所領の没収という処置を受けている。藤原師高の配流と痛み分けで済ますには充分な罰を、延暦寺には与えてあった。
それに加えて延暦寺の武力討伐など、これより400年後に織田信長によってようやく実現したことである。この時代にできることではない。
しかし、後白河法皇は意気軒昂だった。
(これを機に叡山を叩き、延暦寺の荘園を削ってみせる)
だが、ここで事態は暗転する。
6月1日、多田行綱が西光や藤原成親といった院の近臣が、行綱を誘って平家打倒の謀議を巡らせていたと、清盛に密告したのである。
(ーーどういうことじゃ?)
後白河法皇は、最初は事態を飲み込めなかった。
謀議は、東山の鹿ケ谷の信西の子、静賢法印の山荘で行われたらしい。世にいう鹿ケ谷の陰謀である。
西光、成親、俊寛、平康頼が捕らえられ、西光は斬首、俊寛、康頼は鬼界が島に配流、成親は備前国に流され、食事を与えられない上に、崖から突き落とされて殺された。
5日には明雲が召還され、9日には師高が平家の家人の手で惨殺された。
叡山への攻撃は、中止された。
(いや、問題は誰がどうやって決めているのかだ)
院政期にあっては、上皇、法皇が院庁で全てを決定する。
全てが上皇、法皇の思い通りになる訳ではないにしろ、院庁を通さない決定というのはない。
天皇と関白による決定も、太政官による決定も、院庁を通さなければ正式な決定にならない。
しかし鹿ケ谷の事件では、全てが清盛を遠して決定されたのである。
さらに「平家打倒の陰謀があった」ということで、あたかも平家が日本の公的な政府であるかのようになってしまった。
事の秘訣は、高倉天皇にある。平家が高倉天皇を抑えているので、平家が決定権を握ることができている。
(それにしてもこんなことになろうとは)
本来、国家の決定は太政官によってなされる。
太政官で内定したことにを天皇が承認することで国家は運営される。天皇の側から太政官の決定に変化を加えるのが摂関政治である。
ここまでは律令政治の範囲である。
院政は、太政官にも摂政、関白にも直接にはアクセスせず、太政官や摂政、関白は院政の承認機関となっている。律令を建前とする国家体制の中で、正式な統治機構ではない。
そして正式な統治機構でないから、院政が平家に取って代わっても良いのである。
が、それだけではない。
貴族達は叡山攻撃に消極的だった。それを後白河法皇が強硬に実行しようとしたから、院庁が無視され平家の政権ができてしまった。
(とうとう武士の政権ができてしまったか)
鹿ケ谷の陰謀は、通説に言うように平氏政権への不満が高じて起こった事件ではなかった。むしろ後白河法皇を追い落とし、平氏政権を公的なものとした事件だった。
7月29日、天下の騒乱は保元の乱の怨霊によるものとされ、讃岐国に流され、讃岐院と呼ばれていた後白河法皇の兄の上皇は崇徳院と諡され、また同じく保元の乱で敗れた藤原頼長には正一位太政大臣が贈られた。
(しらじらしい、平家が天下を動かす不平を反らすための清盛の策であろう)
と思っても、後白河法皇の気は晴れない。
(余こそが、崇徳院と同じなのじゃ)
という思いが、ますます強くなるだけだった。
後白河法皇にとって最愛の滋子の一周忌が迫っていた。
高倉天皇は閑院にいたが、清盛の意向で八条殿に動座していた。
後白河法皇は、高倉天皇に八条殿に戻って法華八講を行うように命じるが、日野兼光が「無断で閑院に戻ると相国入道(清盛)がどう思うかわからない。八条殿で法華八講を挙行しても問題はない」
と言ったので、高倉天皇は八条殿を動かなかった。
後白河法皇は、最愛の妻の仏事すら思うようにできなかった。

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