後白河法皇⑫

清盛は宋との国交樹立による日宋貿易の拡大のため、抜かりなく手を打っていた。
5月、奥州の藤原秀衡が鎮守府将軍に任命された。日宋貿易に用いる金を秀衡に貢納させるため、清盛が後白河法皇に働きかけたのである。
そして嘉応2年(1170年)7月3日、
摂政松殿基房は、法勝寺で法華八講を行うことになっており、法勝寺に向かっていた。
しかし基房の牛車の前に、女性の牛車が通り、基房の牛車の行く手を防いだ。
基房の従者はこれを咎め、乱暴狼藉を働いたという。牛車の中も覗いたのだろうが、問題は女性が乗っていたと思ったこの牛車に、平重盛の次男、平資盛が乗っていたことであった。
基房は慌てて、重盛に謝罪した。基房は実行犯の引き渡しを申し出たが、激怒した重盛は基房の申し出を拒絶した。
それだけではない、重盛は六波羅に兵を集め、報復の準備をした。
そんな不穏な情勢の中、後白河法皇は福原に行幸し、宋人と会った。
後白河法皇が宋人と会うのは、重要な意味があった。
民間の間では日宋貿易は活発で、京に近いところでは、越前の敦賀まで宋船がやってくることはあった。
しかし、畿内にまで宋人が入ることは異例であった。
さらに天皇家には宇多天皇以来の遺戒があり、外国人とは必ず御簾越しに面会することになっており、実際には天皇は、この遺戒により明治に至るまで、外国人と面会することはなかった。
要するに幕末の攘夷論と同じで、畿内に不浄な外国人は入れるべからずという考えである。
九条兼実は、「我が朝延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」とまで言っている。
宋との間に国交があれば、ここまでひどくはならなかったかもしれないが、現実宋とは国交はなく、日宋貿易はあくまで民間のみの貿易だった。
(今この時期に、平家にも貴族相手に余計な争いはしてほしくないのだが)
と、後白河法皇はひやひやしながら思った。
日宋貿易でどれほど財を成しても、貴族に認められねば、平家の地位を高めたとはいえないのである。

基房は恐怖で邸に引きこもった。しかし高倉天皇の加冠の儀には参内しない訳にはいかなかった。
10月21日、基房は参内のために出かけたが、途中で平家の郎党に襲われた。
平家の郎党は、基房の従者の先駆け5人を馬からひきずり落とし、そのうち4人は髻を切られた。
このため、基房は参内できず、加冠の儀は延期になった。
一方、福原にいる清盛は、この事態を深く憂慮していた。
3日後の10月24日、基房は重盛と共に参内した。そしてこの年の12月、基房は太政大臣に就任した。
世間は、基房が太政大臣に就任したのは、清盛が謝罪の意を籠めて推挙したからだと噂した。
(清盛め、うまくやるわい)
後白河法皇は思った。
重盛の、基房に対する敵対的な態度も、清盛が裏で糸を引いていたからだと、後白河法皇は見ている。
どんな相手でも、追い詰めれば反発する。
平家の表向きの棟梁である重盛と、裏で実権を握っている清盛の態度が違うことで、世間は平家の考えが読めなくなり、恐ろしいが情けもあるとみなすようになる。
そういう漠然としたもので、権威というものはできあがる。
基房は、今回平家の恐ろしさを身にしみて知っただろうが、清盛に温情をかけられたことで、平家に頭が上がらなくなってしまった。
ちなみに『平家物語』では、清盛が基房の車列の襲撃を企図し、重盛が事態を憂慮して襲撃した郎党達を勘当し、資盛を伊勢国に謹慎させたと、清盛と重盛の立場を逆にして描いている。清盛を『奢れる平家の代表」として、平家を悪役に仕立てるためである。

(これは、これからなおも平家の力を頼まねばな)
と後白河法皇は思った。
しかしこの点では、後白河法皇は待っていれば良かった。
承安元年(1171年)7月26日、後白河法皇は、清盛から羊5頭と麝(じゃ、ジャコウジカのこと)を贈られた。
どちらも、日本では産しない。
ジャコウジカは生息地は南アジアで、腹部から麝香という香料が取れる。
(なるほど、日宋貿易ではこのような珍しいものが手に入るのか)
10月23日には、後白河法皇は福原に行幸し、清盛の雪見御所に招かれて歓待を受けた。
武士のように武力を持たず、財力では平家に及ばずとも、後白河法皇は日本の最高位者である。
こちらから媚びる必要はなく、待っていれば必ず清盛の方から媚びてくるのだった。
この福原行幸で清盛が持ちかけてきた話が、清盛の娘徳子の入内である。
時に高倉天皇11歳、徳子17歳。
「おお、良いぞ。徳子は帝の良き伴侶となるであろう」
12月2日、徳子は後白河法皇の猶子となった上で高倉天皇に入内した。
周囲からは疑問の声が上がった。
九条兼実は、「法皇の養女では天皇とは姉弟の関係になり、忌むべきものだ」と非難した。
しかし後白河法皇は押しきった。後白河法皇が徳子を養女にしたのは、後白河法皇の母の待賢門院が鳥羽天皇に入内した時に、白河法皇が待賢門院を養女にした例に倣ったものである。
14日、徳子は法住寺殿で滋子の手により着裳の儀を行い、内裏へと向かって入内した。
こうして後白河法皇は、清盛に大きく恩を売った。
このように述べると、後白河法皇は平家のみに偏っているように見えるが、必ずしもそうではない。
殿下乗合事件の契機となった平資盛は、以後昇進が止まっている。摂関家にも気を配っているのである。

承安2年、寵姫の滋子のために、法住寺殿の南に新御堂を建立することになった。
後白河法皇は、宇治の平等院をモデルに新御堂を建てるつもりだった。
しかし、諸国からは重い賦課が課せられると訴えが相次ぎ、工事は難航した。
(やれやれ、せっかく院政を行えるようになったのに御堂の建設も思うようにならんか)
こういう時に、いつもなら寄進を申し出てくる清盛が、今回は何も言ってこない。
(ここいらで、法皇には少しばかりお困り頂くのもよろしかろう)
というのが、清盛の魂胆だった。
清盛としては、徳子の入内によりひとまず目的を達成したからで、次の目的、宋との国交樹立による日宋貿易の拡大がある。
清盛は、日宋貿易の国交樹立のために、何事か画策しているらしい。
9月に、宋から後白河法皇と清盛に供物が贈られてきた。
その送文には、「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記されていた。
(これは物議を醸すことになる)
と後白河法皇は思った。
「日本国王」とは、中国の皇帝が日本の天皇(この場合は後白河法皇)を臣下として見下す場合に用いる呼称なのである。後に、室町幕府の足利義満が勘合貿易を行った時も、明の皇帝から「日本国王」と呼称されて物議を醸した。
しかも送り主は宋の皇帝ではない。
皇帝孝宗の兄で、明州刺史の趙伯圭からの使いである。
(これでは国交を開いたことにならん)
宋がこのように高飛車なのは、理由がある。
この時代、宋は北宋でなく、臨安(現在の浙江省杭州市)に都を置く南宋である。
この時代、宋は河北を女真族の金に奪われていた。
そのため南宋はかえって排外的な性格を強く持っていた。この南宋の時代に、尊王攘夷をスローガンとする朱子学が生まれることになる。
はたして、貴族達は反発し、品物を送り返して返牒も出すべきではないと言った。
(清盛、これで良いのか)
後白河法皇は思った。
清盛としては、これでいいのである。
清盛は日本の王ではなく、前太政大臣にすぎない。
身分の上下によらず、最も勢力の強い権門が他の権門の上に立つ権門勢家の世では、実権を握れば、誰が上に立ってもいいのである。それが中国の皇帝であってもである。
日本のこの傾向は、天下統一の機運が高まる織田、豊臣の時代まで変わらなかった。
そして後白河法皇も、体裁にはこだわらなかった。
後白河法皇は、貴族の反発が収まるのを待った。清盛は、少しずつ貴族達を懐柔していった。
単なる懐柔ではない。殿下乗合事件が、未だに貴族達の記憶に鮮明に残っている。清盛を怒らせることを、貴族達は恐れていた。
そして承安3年(1173年)3月3日、左大臣大炊御門経宗の計らいで、宋に返牒と答進物が送られることになった。
後白河法皇は蒔絵の厨子に入れた色革30枚、蒔絵の手箱に入れた砂金30両を、清盛は剣一腰と鎧を送った。
以降、日宋貿易は公的なものとなり、貿易規模はさらに拡大し、宋銭が大量に日本に流入した。

(これでようやく厳島に行けるか)
と後白河法皇は思った。
しかしそうなると、諸権門勢力の上に立つ後白河法皇としては、また平家の勢力を削りたくなってきた。
平家の基盤は、日宋貿易と、摂関家の荘園を清盛が預かっていることの2つである。
摂関家の荘園は、清盛の娘盛子が近衛基実に嫁ぎ、基実が急死したために基実の子が成人するまで、盛子が荘園を預かる形で、実質清盛が管理していた。
その荘園を清盛から取り上げるには、盛子に再縁の話を持ち込めば良い。
後白河法皇は、殿下乗合事件で的にされた摂政、いや摂政改め関白の松殿基房に、盛子の再縁相手の白羽の矢を立てた。
盛子の前夫の近衛基実の弟であり、現関白である。盛子の再婚相手としてこれ以上の相手はない。
加えて殿下乗合事件からまだ日も浅く、基房を太政大臣にしたといってもまだしこりが残っている中で、この縁談により、清盛は基房との関係を修復することができる。
それでなくても後白河法皇の肝煎りである。清盛は拒み難いであろう。

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