一領具足④

(信長の公方様への要求は、益々強くなるだろう)

と元親が思っていたら、案の定、1年後の永禄13年1月23日、信長は殿中御掟を新たに5条追加して義昭に突きつけた。内容は、

「諸大名に御内書出す時は、信長に報告して、信長の添状も出すこと」

「これまでに義昭が出した命令は全て無効とする」

「将軍には領地がないのだから、将軍家に忠節を尽くした者に恩賞を与える場合は信長の領地から都合をつけるようにすること」

「天下の政治は信長に任せられたのだから、信長は誰の上意を得ることなく信長の判断で成敗をするべきである」

「天下が泰平になったからには、宮中の儀式に将軍は常に気を払うこと」

というものである。

(いやはやこれは…)

元親は呆れた。これでは幕府など無いも同然ではないか。

(これは反発が来るぞ。それとも信長は、それも考慮に入れて強気に出ているのか?)

元親は一条氏のことを思った。

(一条氏を相手にするには、時を味方にせねばならない)

元親は思った。

土佐は田舎である。

元親の自慢の一領具足だが、一条氏の長宗我部への仕打ちに腹は立てているが、だから下剋上とはすぐにはならないのである。

一領具足の野性は、まだ一条氏の血の尊貴さに逆らうことができなかった。

(待つ、大地が腐るまで待つ)

この年、元亀と改元された。「元亀・天正の世」と後に呼ばれる、戦国の最も活発な時代、信長にとって最も苦しく、また華々しい時代の幕開けである。

元親は、文机に向かって書き物をしていた。

「喧嘩、口論を禁ずる事」

掟書である。後に「長宗我部元親百箇条」と呼ばれる分国法である。

「謀反、国中への悪口、流言飛語の禁止」

「博打、踊り、相撲見物、遊山振舞の禁止」

「隠田の禁止」

などなど。

施行は、しない。

(一条家をなんとかしてからじゃ)

下剋上を成す戦国大名の特徴は、第一に下層に同調、または共感を得ることである。

次に、下剋上をした後、自らを中心とした秩序を作り上げる。

代表的なのが北条氏で、「早雲寺二十一箇条」も、多くは「出仕した時は傍輩に上司の様子を聞いて、それから上司のところに行け。そうすればぎょっとするようなこともない」という、上司との関係の処世訓である。ちょっとしたことで上司との関係が悪化して秩序が乱れるのを、処世訓で防ごうとするのが、北条氏のきめの細かいところである。

信長も、守護斯波氏の城館の清洲城を奪取した後、城を斯波氏に譲り、自らは隠居と称して、三の丸の櫓に移り住んだ。こうして信長は元清洲城主となり、元守護であるかのように偽装した。すると織田家の一族が次々と暗殺される尾張国内では、美濃の潜在的国主でもある信長は最も尊貴な存在となり、弟の信行と戦った稲生の戦いでは、信長が一喝すると敵の兵士が逃げる事態までなった。

下剋上をするまでは、むしろ無秩序を必要とする。野性的で野卑なくらいの無秩序が。


元亀2年(1571年)、元親は一条氏の家臣の津野氏を降伏させ、三男の親忠を津野家の養子にした。

しかし、これ以上、一条氏に手を出せない。


元親を記した文書に『土佐物語』があるが、一条兼定は暗君として描かれている。

しかし『土佐物語』は18世紀になって成立したもので、都合良く脚色されていると見るべきだろう。

一条氏は、これまでは土佐国司として、土佐七雄の上に立って、ひとつの力が突出しないように努めているだけでよかった。

しかし元親の台頭により、一条兼定は、自らが戦国大名として力をつけるべきと考えるに至った。


元亀元年4月、信長は朝倉討伐のために越前に向かうが、北近江の浅井長政の離反により、朝倉討伐を中断して撤退した。

6月に織田・徳川連合軍は、姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍に勝利。浅井方の横山城を落としたが、三好三人衆が摂津で蜂起し、信長が摂津の野田、福島城を攻撃すると、石山本願寺が三好三人衆に加勢した。

信長は摂津から撤退し、比叡山に立て籠もった朝倉・浅井連合と対峙した。すると伊勢長島で一向一揆が起こり、信長の弟の信興を自害させた。

信長は六角承禎と和睦し、勅命により朝倉・浅井との和睦に成功することで虎口を脱した。


信長は、遠方の味方を必要としていた。

この場合特に重要なのが、阿波に本拠を置く三好氏を牽制できる存在だった。土佐で急速に台頭した元親は、三好氏の牽制にうってつけだったが、一条氏と睨み合いを続けている限り、元親は阿波に手を出せなかった。

「近頃の御所様は、よろしくない」

と、土佐国中で一条家を非難する声が挙がった。

「よろしくない」とはどういう意味だろうか?

一条兼定は、元親に対抗するために、戦国大名として、自らの領土を拡大しようとしているのである。

一条家が領土欲を示さずにやってこれたのは、土佐七雄の力が拮抗していたからである。それが長宗我部を除いて全て滅んでは、ちょうど信長と義昭の関係のように、存続はできても実権のないものになってしまう。

要するに、兼定が都合良く傀儡になってくれないことを「よろしくない」と言っているのである。

元親も、信長の部将明智光秀の家臣となった、元親の妻の兄の斎藤利三を通じて信長に、そして一条兼定の本家にあたる京の一条家に、土佐での兼定の評判を伝えた。

当時の京の一条家の当主は、一条内基である。この時従三位、権大納言、後に従一位関白左大臣になる。

一条内基は、兼定の様子を聞いて、

「それは、よろしからず」

と言った。もちろん信長の意向を慮ってのことである。それにしても日本の貴族は、自らを実権を持たないようにする習性がついている。

内基の言葉は、当然土佐に伝わった。

「権大納言様も、そのように仰っておられる」

と、土佐人達は口々に兼定を非難した。

そのような情勢の中、土居宗珊誅殺の事件が起こる。


土居家は一条家の一族であり、一条家の家老である。

土居宗珊は兼定の放蕩な生活を諌めて誅殺されたと言われている。

近年では長宗我部側からの陰謀があったと見る意見があるが、そんな大きな仕掛けは元親はしていないだろう、というのが筆者の見解である。

一条家が土佐の大名の上に緩やかに立つ公家の地位を脱して、戦国大名化する余地はあった。

何しろ、一条兼定の内室は大友宗麟の娘である。兼定の母も、宗麟の父の大友義鑑の娘で、大友氏とは二重の縁である。

大友は中国の毛利を牽制したいから、毛利と組む伊予の河野を攻撃するために、一条氏に援助を惜しまない。

大友宗麟の影響を受けて、兼定の内室はキリシタンである。洗礼名をジュスタと言い、兼定の娘もマダレイナというキリシタンである。

兼定も土佐を追放された後、ドン・パウロという洗礼名を貰っている。この頃には相当キリスト教に感化されていたかもしれない。

大友宗麟は、キリシタンを核として領国経営をした戦国大名である。兼定も、一領具足に対抗するにはキリシタンを核にすべきと考えたかもしれない。

土居宗珊は、温厚ながらも、そのような変革を快く思わない守旧派だったのだろう。

一条家には、戦国大名化する余地はあったが、時間が足りなかった。

一条兼定は、土居宗珊を一族もろとも誅殺した。

兼定はこの一件で信望を失い、三家老によって隠居させられた。しかし兼定は、隠居はしても実権は握っていたようである。

そして、京から一条内基が中村を訪れた。兼定の嫡子の万千代を元服のためである。内基が烏帽子親となり、万千代に内政と名乗らせた。

この際、兼定は中納言に任ぜられている。本家の内基が権大納言だから相当な出世である。つまり「これで大人しくしておけ」ということである。

(これで、準備は整った)

元親は思った。時に元亀4年(1573年)。

その間も、元親は信長の情勢に注目していた。

(凄まじい)

の一言に尽きた。

元亀2年に比叡山を焼き討ちし、同年松永久秀の裏切りに遭い、翌元亀3年は武田信玄が西上を始め、同盟者の徳川家康が三方ヶ原で武田軍に散々に敗れ、信玄が死んで武田軍は撤退し、信長は将軍義昭を追放し、浅井、朝倉を滅ぼした。

(儂は今は、信長のようにはやれぬ。しかし一条家を滅ぼせば、信長のように戦うのだろうか。戦わねばならぬだろうか。四国を相手に)

元親には、わからない。

天正2年2月、元親は一条家の老臣と謀って、兼定を中村御所から追放した。兼定の嫡子の内政に娘を嫁がせて傀儡とし、兼定は九州の大友の元に逃れた。

兼定はその後、伊予高森城に行き、旧領を取り戻すための兵を募ったが、思うように兵は集まらなかった。

一条家の家臣加久見左衛門は、兼定の追放に憤慨し、挙兵して老臣を討伐し、中村を占拠した。しかし元親は「一条家の内訌を鎮撫する」という名目で中村に兵を派し、中村を占拠した。

兼定は大友氏の力を借りて、伊予宇和島で挙兵した。兼定が中村を占拠すると、兼定の心意気に感じた土佐の武者が3500集まった。

勢いに乗った一条方は、四万十川の西岸に陣を張り、川の中に杭を撃ち込んで長宗我部の来襲に備えた。

これに対し、元親は一条方の倍以上の7300の兵を集めた。

元親にとって、兼定はもはや敵ではない。

福留右馬丞の子福留儀重が、杭を打ち込んでいない北の方に移動して渡河をしようとすると、一条方は軍を二分して福留隊を追った。

そこで元親が、全軍に渡河を命じた。

川に打ち込んである杭を物ともせずに突き進む一領具足に、一条方は浮き足立ち、総崩れとなって方々に逃げていった。

一条兼定は瀬戸内の戸島に逃げ、以後、土佐に攻め込むほどの勢力を回復することはなかった。

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