伊達政宗⑥

天正14年(1586年)11月、蘆名亀王丸がわずか3歳で死んだ。

「来たかーー」政宗は緊張した。

蘆名には次期当主となるべき人間がいない。今度こそ政宗は、弟の小次郎を蘆名の当主にしなければならなかった。

(だが、それはできるかーー)

今までの行きがかりからいえば、厳しい。

(だがやらねばならぬ)

政宗は蘆名の家臣達と交渉を始めた。


蘆名の家臣に、金上盛備(かながみもりはる)という者がいた。

蘆名家は2代に渡り、蘆名の血筋でない者が当主となり、しかも先代の国王丸が幼君だったことで、家中がぐらついていた。

金上盛備は、乱れた蘆名家中をなんとかまとめ上げねばならないと思っていた。

しかし、金上盛備は忠臣ではない。

蘆名家中には、伊達小次郎を養子に迎えようという伊達派が少なからずいた。

昨日今日の話ではなく、伊達輝宗と4代前の蘆名盛氏の間に話があり、ここで伊達家から当主を迎えるのは一番自然な流れであった。しかし、

「左京大夫殿(政宗)が越後入りをやめられたため、我が蘆名は面目を失した。そのような伊達家から養子をもらって良いものか」

と言って、他の家臣を説得し始めたのである。

要するに、金上盛備は蘆名ナショナリストなのである。蘆名の血を引かない当主を2代も持って、実体がどこまであるか疑わしい蘆名の栄光を感じるには、対外戦争が望ましい。だから新発田重家の乱に再介入して、越後を侵食したいのである。さらに、

「誰を当主にするかは、佐竹の意向も聞かねばならぬ」

と、盛備は言った。一理あることで、重臣達を説得した盛備は、常陸の太田に向かい佐竹義重に会った。そして、

「ご子息を養子に頂きたい」

と言ったのである。さらに、

「佐竹家のご子息を当主に仰いで、越後入りをさせて頂きたい」

と言ったから、義重は仰天した。上杉と、その背後にいる秀吉を敵に回すということではないか。

「関白は遠く九州を攻めるつもりでござる。九州を切り従えるの゙に数年はかかりましょう。その間に越後を手に入れてしまえば良いのでござる」

と盛備は義重を説いた。

(どうしようか)

義重は迷い、「とりあえず考えてみる」と言って、盛備を帰らせた。

そうしているうちに年が明け、天正15年(1587年)になった。

(次男の義広を養子にやろう)

と、義重は決心した。

養子にやるといっても、義広は既に、奥州南部の白河家に養子に行っている。

ここには、義重の底深い計算があった。

義広は白河義親の養子になったが、義親は白河家の傍流だったのが主君を追放して当主になった者である。

いわゆる下剋上だが、奥州では戦国の風潮が遅れており、下剋上は好まれない。

義親に子がいないので、「養子にほしい」と頼まれて義重は義広を養子にやったが、その上秀吉を敵に回して蘆名に養子に出しては、奥州諸侯の受けがよくないことはなはだしい。そこで義広の白河家との養子縁組は解消して、改めて蘆名に養子縁組させようとした。

白河義親は既に家督を義広に譲っていたが、義広との養子縁組を解消されて、義親は白河家の当主に復帰した。

「そこもとのことは見捨てぬ。いざという時は必ず助ける」

と、義重は義親に言い含めて、権力基盤の弱い義親がどう転んでもいいように配慮していた。

こうして、佐竹義広は蘆名義広となり、蘆名氏第20代当主となった。


「何だと!」

佐竹義広が蘆名家の当主になったと聞いて、政宗は激怒した。「しかも越後入り?蘆名と佐竹は関白殿を敵に回す気か?」

政宗は亘理元宗を秀吉への使者として、大坂に送ることにした。

「良いか、関白殿に、小次郎を蘆名の養子に推挙させるように交渉するのじゃ」

と、政宗は元宗に言った。

元宗は越後に向かい、新潟から海路敦賀まで行き、大坂ヘと向かった。

「よう参ったの」

と、秀吉は機嫌良く元宗を迎えた。話を聞いて、

「それはいかん、越後入りなど、佐竹は儂に仇なすことをするものよ。しかし儂も九州征伐があってな、今は身動きが取れぬ。佐竹に使いをやって𠮟りつけておくとしよう」

と、秀吉は言った。小次郎の養子入りの話については、

「それは左京大夫殿がお気の毒じゃ、その件、よく考えておこう」

と言った。

「なにぶんにもよしなに。弾正少弼殿(景勝)の身を思えば」

と元宗は言った。新発田重家の乱が長びくということである。

「わかっておるわ」

と元宗秀吉は力強く頷き、元宗を退出させた。

「治部(治部庄輔、石田三成)、新発田の乱は今どのようであったか」と、秀吉は三成に尋ねた。

「は、弾正少弼殿は新潟城と沼垂城を取り戻したところかと存じまする」

と三成は答えた。

秀吉も、言われずとも新発田の乱のことはわかっている。

「ーーなぜ関白は佐竹を咎めぬ?」

政宗は言った。政宗も家督を相続して2年目、輝宗の死や人取橋の戦いという最大の危機を経験して、外交において冷静さを失うことはなくなっている。

「九州征伐があるからでござりましょう」

と小十郎は言った。

「九州征伐など、いつ終わるかわからぬのにか?」

「おそらくは、九州征伐を成すにあたって目算があるのやもしれませぬ」

小十郎は言ったが、肝心の新発田重家の乱が、かつてとは大分その重要性が下がっているの゙は、小十郎も認めざるを得ない。

新発田重家は、上杉の一家臣の身に過ぎなかったのを、天正9年(1581年)から天正15年まで景勝相手に戦っている。それだけ重家が名将だということである。

しかし重家が、これだけ乱を長引かせられたのは、それができるだけの力量があるだけでなく、乱が長引く充分な条件があった。

乱の当初は、景勝は御館の乱からまもなく、家中を充分に掌握できていない上に、まだ織田信長が健在だった時期である。

信長が景勝に圧迫を加えていた上に、政宗の父の輝宗が蘆名や最上を巻き込んで越後包囲網を形成していた。

信長が本能寺で死んでも、その後柴田勝家、勝家の死後は佐々成政がいて、景勝は新発田重家に対し優位に立てなかった。

しかし政宗の代になって上杉と和睦し、佐々成政が滅び、景勝が秀吉に臣従して秀吉が後ろ盾となったことで、重家に対する景勝の優位は動かないものとなった。今さら蘆名が重家に多少の加勢をしたところで、重家が巻き返しを図れる訳ではなかった。

そして、蘆名の行為が完全に反秀吉の行為なのに、秀吉が実質同盟者の政宗に肩入れしてくれないことで、政宗は南奥州に対し決定的な優位性を持てないでいる。

「殿、これはあながち悪いことではござりませぬ」

と言ったのは伊達成実だった。

蘆名が新発田に味方したため、南奥州の諸侯達の気持ちはぐらついている。

伊達と佐竹では伊達が優位とはならなかったが、伊達と佐竹は互角といっていいところまできている。

「ここで南奥州の大名の心を佐竹から離し、伊達に向かせねばなりませぬ。それには殿」

と、成実は言った。「それがしに大内備前(定綱)を調略させて頂きたい」

「備前を?どういうことじゃ?」政宗が尋ねると、

「以前、殿は家督を継がれたばかりの頃、備前の小手森城の者を撫で斬りになさいました。その頃は性山公(輝宗)もご存命で、殿が諸大名に厳しく当たり、性山公が諸大名をなだめていけば、奥州一統も可能でござりましたろう。しかし我らの不覚により性山公は拉致されてあのようなご最後を遂げられ、我らも人取橋で敗北したのでござりまする。よって殿には、厳しさと共に性山公の寛仁の心を合わせ持つ必要があると存じます。もし備前を帰参させることができれば、『備前ほどの者が許されるなら』と、奥州の大名達も殿を慕うようになるでありましょう。備前を帰参させて、佐竹以上の人気を得るのでござる」

「わかった、やってみよ」政宗が言った。

「関白殿の九州征伐がどうなるか、しばらくはいくさを控え、それを見極めるのがよろしいかと存じまする」

小十郎が言った。

「どういうことじゃ?」政宗が聞いた。

「関白殿の配慮により、伊達と佐竹はほぼ互角の力でにらみ合いをすることとなっておりまする。ならば関白殿は、伊達と佐竹で潰し合ってくれることを望んでいると見るべきでござりましょう。そして伊達と佐竹が潰し合い、生き残った方を関白殿はどのようになさると思し召されますか?」

「ーーどうするのじゃ?」

「いずれか生き残った方を取り潰すやもしれませぬ」

政宗はさっと青ざめた。

「ーー小十郎、もう一度聞く。関白の九州征伐についてどう思う?」

「関白殿が九州征伐に手こずる可能性があると思って、このようにしているとは思われませぬ」

「ーーあいわかった」

政宗は拳を握りしめた。

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