後白河法皇㉒

公卿会議は続く。
頼朝、義仲、行家の三人に、それぞれ位階と任国が与えられることになった。
しかし、頼朝は功第一とされながらも、未だ上洛していない。
そこで官位は頼朝が上洛した時に与えればいいという藤原経宗の意見と、直ちに頼朝を賞すべしという、九条兼実が対立した。
(兼実はとことん反院政じゃのう)
と、後白河法皇はにがりきった。
兼実の嫡子の良経は、一条能保の娘である。
一条能保の妻は坊門姫、源義朝の娘で、頼朝の同母妹である。後に兼実の家系から、鎌倉4代将軍九条頼経が出る。
要するに、鎌倉の頼朝とは縁が深い。
そのため兼実は、鎌倉に身を寄せている大江広元や、三善康信とも連絡を取り合っているらしい。
兼実は、院政自体が今の世の乱れの元だと考えているらしい。
それで平家が京を去った以上、院に対抗できる新しい政権を打ち立てるべきだと、兼実は考えている。
義仲があまりにも田舎者なため、義仲が長く京を維持できる保証はない。そこで早い段階で、頼朝の立場を強化して、平家と後白河院政に対抗できるようにしたいと、兼実は考えていた。
(頼朝の任官は、まだ先でいい)
義仲は従五位下左馬頭越後守、行家は従五位下備後守に任じられた。
頼朝には、功第一とされた以外の沙汰はなかった。
(こういうのは、後々まで取っておいてこそ験のあるものじゃ)

後白河法皇にとって、安徳天皇が連れ去られたのは痛かった。
しかし、平家が都落ちして良かったのは、これを口実に、平家の官人を大量に解官させられることだった。
8月6日、平氏一門、党類200人を解官。
16日、平家の大量解官により空いたポストに、院近臣を大量に投入。
「意義無し」
と、九条兼実も言った。
本当は、後白河法皇の独断を認めたくなかった。しかし平家は賊軍であり、大量解官は当然である。
当然としなければ、平家は天皇を擁し、三種の神器をも持ち出している。「平家は賊軍」としなければ、自分達が逆賊となるのである。
平家一門の大量解官により、諸国の受領に至るまで、多くの官職が空席になっている。
政治に空白を作ることは許されなかった。
「任人の体、殆ど物狂ひと謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」と、日記の『玉葉』で怒りをぶつけている。
後白河法皇は、桓武平氏の中でも、堂上平氏は解官させなかった。
堂上平氏とは、桓武天皇の子孫の中でも、高望王の子孫でなく、高棟王の子孫の平氏で、公家平氏のことである。平清盛の義兄の平時忠などがこれに当たる。
当然思惑あってのことで、安徳天皇と三種の神器の変換を、堂上平氏と極秘に交渉したのだが、交渉は失敗した。
やむなく、故高倉天皇の二人の皇子のうちから、次の天皇を選ぶことになった。ところが、
「次の帝は、北陸宮を」
と、義仲が嘆願してきた。
ただの嘆願ではない。
どういうことか、義仲は俊尭という延暦寺の僧を介して嘆願してきた。こういうところ、義仲がただの田舎武士と侮れないところである。
後に俊尭は、義仲が後白河法皇の法住寺殿を襲撃してクーデターを起こすと、その際法住寺殿に居合わせた天台座主の明雲も殺害され、明雲に代わって天台座主になる。
義仲の代理たる俊尭の言うところ、
「此度の大功は、義仲が推戴してきた北陸宮の力であります。また平家の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので、以仁王の系統こそが正しい皇統である」と、後白河法皇に力説した。
(何を言うか)
と、後白河法皇は不快だった。
「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」
と、九条兼実も、誰が天皇になるかについて臣下が発言するのは、治天の君である後白河法皇の権限に対する重大な侵犯であると批判している。
それに、高倉天皇の皇子が二人もいるのである。
以仁王は親王ですらない王であり、天皇の皇子を差し置いて、王の子を天皇にするなど、朝廷が受け入れるはずがなかった。
しかし、平家を退去させた義仲を無視したのでは角が立つ。
そのため御卜、つまり占いが行われた。
と言っても、誰が天皇になるかは決まっていて、その候補が当たるまで、占いは繰り返されたのである。
天皇として践祚したのは、四之宮の尊成親王である。
こうして、初めて三種の神器を持たない人物が天皇となった。これが後に鎌倉幕府に対し承久の乱を起こす後鳥羽天皇である。
後鳥羽天皇の擁立には、新たに後白河法皇の寵妃となった丹波局の意向が強く働いていたという。
18日、後白河法皇は義仲に、平家没官領140余ヶ所を与えた。

当面のことの処置は終えた。
次は、京の治安の回復である。
京の治安回復は、義仲の役割である。ところが、これがうまくいかなかったのである。
元々養和の飢饉により、京には食糧がほとんどなかった。
そして義仲の軍も、兵糧が潤沢だったのではない。皆、飢饉で食糧は欠乏しがちだった。
義仲についてきた将卒は、京に来れば食えると信じていた。しかし京でも食えないとわかると、これらの武士達は略奪行為に走るようになった。
この略奪行為を、義仲にもどうすることもできなかった。
義仲軍というのは、行家や安田義定、近江源氏、美濃源氏、摂津源氏などの混成軍であり、義仲が統制できる状態になかった。
「都の守護に任じる者が馬の一匹を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米がなければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入った訳ではないぞ」
と、義仲はとうとう開き直った。
(良い潮じゃ)
後白河法皇は、義仲を呼び出し、
「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」
と、義仲を責めた。
義仲は、恐縮した。
義仲は平家追討を奏上した。
「ならば」
と、後白河法皇は義仲に剣を与えた。
義仲は軍を率いて、播磨に下向した。
(これでよい。義仲も院の重さがわかったであろう)
と、後白河法皇は満足気だった。
しかし、後白河法皇はわかっていなかった。
平家に代わり、新たに京に義仲が入った。
そして義仲が新しい天下の中心となる以上、義仲軍の京への駐留が円滑に進むようにするべきなのである。
要は駐留軍の数が多いことが問題で、多くを田舎に返せば、事は解決する。平家が京を狙っているため、人員を減らしすぎるのは危険だが、いざという時に京に駆けつけられるぎりぎりのところに兵を分散させるなどの努力をすればいいのである。
平家も兵糧の不足に苦しみ、状況の打開のために大規模な軍事遠征の計画を繰り返し、そのたびに沙汰止みになっていた。義仲に遠征させるのは、平家の過ちの二の舞を演じることである。

義仲が出陣するのと入れ替わるように、中原康定が帰京した。
中原康定は、後白河法皇の命により、鎌倉の頼朝と交渉をしていたのである。
交渉のひとつは、平家追討のために西国に向かった義仲に代わって上洛し、京を守護すること、もうひとつは、東海道と東山道の荘園を本所に返すことである。
上洛については、頼朝は奥州の藤原秀衡と、常陸の佐竹隆義が鎌倉に攻め込む恐れがあること、また頼朝は数万騎を動員して上洛できる実力があるが、そのような大軍が上洛しては、食糧が不足している京がさらに食糧不安に陥ることを理由に断った。
しかし荘園の返還については、
「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」
「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」
を、頼朝は後白河法皇に約束した。
「一々の申条、義仲等に斉しからず」
と、朝廷の面々は、大いに喜んだ。そろそろ本格的に、義仲を嫌うようになっていたのだろう。
しかしこの時、重要な変化に気づいた者は少なかった。
まず「平家横領の荘園」とは、源平合戦で頼朝が東国を制圧するにあたり、対立した武士を「平家方」として奪った所領のことである。
「所領を奪った」と述べたが、厳密には、彼ら武士は土地の支配者ではない。
土地の支配者は、貴族であり寺社である。武士は「下司」という立場で、荘園の管理者となっている。
所領を返還すると言っても、「下司」は平家方の武士達ではなく、頼朝傘下の御家人達である。この頼朝が任命した「下司」を「地頭」という。
「……」
後白河法皇は、考え込んでしまった。
長い間、武士は貴族の下風に立たされてきたが、その理由は様々にある。
ひとつには、各地の荘園は、元を正せば貴族や寺社の土地ではない。荘園の多くは、開墾した地主のものだった。
この開墾地主が武装したのが武士だが、この武士達には元々の氏素性というのがほとんどない。
平安時代、度重なる天候不順により、多くの地方の古代豪族が没落した。
武士は、大いにこの古代豪族達に成り代わって台頭してきた。しかし氏素性のない、身分としては平民と変わらない武士達は、自分達の土地を法的に保持する手段がなかった。
要するに、不当に奪われる危険が常にあったということである。
そのようなことを防ぐために、武士達は貴族や寺社に荘園を寄進した。
このようにして形成された荘園を、寄進地荘園という。土地の名義は貴族や寺社のもので、武士は「下司」として、実質的な荘園の持ち主となった。
また武士はこの時に、貴族の「血統」を手に入れた。日本人のほとんど全てが、源平藤橘のいずれかの祖先がいるようになったのは、この時に始まる。
しかし、土地の名義が貴族のものということは、貴族が自由に「下司」を解任できるということである。解任されれば、武士は本来の自分の土地を失ってしまう。
また、源平藤橘いずれかの家系を手に入れても、系図には仕掛けがあり、系図によって祖先の名前が違ったり、祖先が数代空白になるなどしていた。
貴族の意向次第で、いつでも家系から排除できるようになっていたのである。
このような事情のため、武士は貴族に犬のように仕えた。
(それを頼朝は……)
後白河法皇は唸った。

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