伊達政宗⑦

天正15年(1587年)3月1日、豊臣秀吉の本軍が大坂城を出陣した。

麾下20万の大軍である。

「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と、秀吉は黒田官兵衛に書状を書き送っている。

まさにやせ城で、対する島津軍は冬も戦い詰めだったため、兵糧も乏しくなっていた。

それに対し豊臣軍は、30万人部分の兵粮米と馬2万匹分の飼料1年分を調達させていた。

豊臣軍は次々と九州に上陸し、秀吉も3月28日に小倉城に入った。

豊臣軍は二手に分かれ、秀吉軍は肥後方面から、秀長軍は日向方面から南下し、5月8日には島津義久が降伏して九州征伐は成就した。電光石火の速さと言っていい。


夏になると、上杉景勝は10000の軍勢を率いて、新発田重家の籠もる新発田城を包囲した。

秀吉は、新発田重家討伐のために、景勝に様々な援助をした。景勝としても、御館の乱の余波として起こり、7年もの間景勝の上杉家当主としての地位に疑問を投げ続けてきたこの反乱を、自らの手で鎮圧しなければならなかった。

景勝は親交のあった青蓮院門跡の尊朝法親王を通じて和睦を勧告させたが、重家は首を縦に振らなかった。


「動けぬのう」政宗が小十郎に言った。

政宗は南奥州の諸勢力と和睦し、蘆名には秀吉が小次郎を養子に迎えるように交渉しているため、政宗は蘆名を攻めることができないのである。

「関白の九州征伐はことのほか速かった。関白が九州で手こずっていたなら、今頃は関白を当てにせずに兵を動かしていたものを」

「動けぬのは損とは限りませぬ。昨年はいくさが続いており、兵は疲れ、ご領内も疲弊しており申した。いずれどこかで兵を休ませねばなりませぬところでありましたゆえ」

小十郎の言葉に、政宗は頷いた。「関白の交渉は成功すると思うか?」

「関白殿といえど、一度は決まった養子縁組を覆すのは難しゅうございましょう」小十郎は答えた。

「この間に、関白に時間を稼がされてるとしたら?」

「ーー関白殿が佐竹より殿を警戒されているとお考えになりまするか?」

小十郎は言ったが、案外そうかもしれないとも思う。

政宗が当主となって以来、伊達家は親豊臣であったのに、肝心の秀吉がどこか政宗に冷たいのである。

今回蘆名に対し、小次郎を養子にするように働きかけているの゙は、今までで最も厚情を見せているといえるかもしれないが、成算の低いところで親身になられてもかえって秀吉の真意を疑ってしまうところだった。


新発田重家の補給ルートとして蘆名側では赤谷城を築城していた。

この赤谷城の救援に赴いた金上盛備は、景勝の家臣藤田信吉により撃退された。

(なんという妄執よ)

小十郎は思った。新発田重家を援助しなければ蘆名が攻められることはなかったのに、金上は未だに、蘆名が上杉に勝つ夢を見ていた。そして新発田重家もまた、景勝を苦しめた時代を懐かしんで、その頃に戻ろうとする妄執を抱いていた。

佐竹義重はこの報を受けて、嫡子の義宣に家督を譲って隠居し、「蘆名のことは当方の預り知らぬこと」と秀吉に弁明の使者を送った。

秀吉も、この件については何も言わない。

9月19日、赤谷城が藤田信吉によって攻略された。赤谷城の陥落により、新発田城への補給は完全に絶たれた。

9月24日、「因幡守(重家)が城を出て降伏すれば赦すべし」という、秀吉からの降伏勧告があった。それを重家が拒否すると、

「来春までには落着すべし」と、秀吉から景勝へ厳命が降った。

景勝は、10月13日には五十公野(いじみの)城を陥落させた。

10月25日には、新発田重家は新発田城を打って出て、色部長真の陣に突入し、「親戚のよしみじゃ、誰ぞ首を取れ」と言って自刃した。

10月29日には最後まで抵抗した池ノ端城が陥落し、こうして7年続いた新発田重家の乱は幕を閉じた。

12月、秀吉は関東、陸奥と出羽に惣無事令を発した。私戦の停止である。


「ーーしてやられたわ!」政宗が怒鳴った。

(確かに、これでは佐竹よりも待遇が悪い…)

小十郎は考えた。(どうしてこうなった?関白殿に対する外交に抜かりはなかったはずだ)

「これで丸一年棒に振ったわ!こうなったら、武力で蘆名を取るまでよ」

政宗の息が荒い。

(相当にご立腹されておる)

政宗を見て、小十郎は思った。当然だろう。

小十郎としては、我儘な弟の願いを叶えてやりたい気持ちで、蘆名のことはなんとかしてやりたい思いがある。

(ん?)

と小十郎は気づいた。

「殿、会津を手に入れられるやもしれませぬ」

と、小十郎は言った。

「どういうことじゃ?」

「ただし、申し上げるには殿にご覚悟が入りまする」

「申してみよ」

「はっ、殿は儀山公(9代政宗)の名を継ぎ、昨年は大内備前相手に威を振るい申しました。そのような殿に対する関白殿のこの仕打ち、殿は必ず蘆名に攻め入ることであろうとの関白殿のお考えかと拝察つかまつりまする」

「では蘆名に儂が攻め入ればどうなる?この伊達を取り潰すのか?」

「さにあらず、関白殿の目論見は殿を奥州一の荒大名とし、その殿を手懐けることで自らの威を天下に示すことでござりまする」

「ーーふーむ」

政宗は腕組みをして考えた。「その考え、確かか?」

「そこが殿のご英断でござりまする。関白殿の手に乗らずとも、関白殿が小次郎様の蘆名への養子入りに骨を折って下さったことで、殿は家中に面目も立っておりまする」

秀吉の惣無事令により、小次郎派の家臣も鳴りを潜めている。政宗の立場は、去年に比べずっと安定していた。

「ーーあいわかった」

政宗は言った。

「蘆名を切り崩せ」

と、政宗は命を下した。

現実、蘆名の家中は乱れている。

蘆名義広が佐竹から連れてきた大縄、刎石、平井といった家臣達と、蘆名の旧臣が対立しているのである。

佐竹から来た家臣達は、金上盛備と組んで新発田重家を支援していたが、重家が滅んだことで家中は動揺し、義広を当主に立てることを危ぶんでいた。

一方秀吉は、

「佐渡・出羽両国は切り取り勝手にせよ」

と、上杉景勝に命じた。

景勝は出羽の大宝寺氏を攻めた。大宝寺氏は政宗の伯父の最上義光も連年いくさを仕掛けて狙っていたが、義光は上杉と庄内を争う形になってしまった。

(勝手な、しかしこれで伯父上(義光)も動きが取れぬだろう)

政宗は思った。

そんな時、伊達領の北の大崎氏で内紛が起こった。

大崎家の当主大崎義隆の寵童争いが内紛に発展したらしい。

大崎義隆は、寵童の新井田隆景を寵愛し、隆景はその権勢をかさに着て、同じ大崎家臣の氏家吉継と対立した。

氏家吉継はとうとう怒って、大崎家に背き、政宗に内通してきた。

吉継と気脈を通じて、富沢氏、三迫氏も大崎に叛いた。

(大崎の内紛か…)

政宗は考えた。そして浜田景隆を呼び、

「大崎に行け」

と、景隆を陣代(大将)に命じた。留守政景、泉田重光、小山田頼定を与力につけた。

兵力は10000。

政宗は出陣しない。

(まだ南がどうなるかわからぬ)

それに、秀吉の惣無事令に違反して兵を動かすことで、自ら兵を率いるの゙は遠慮しようと思った。

大崎義隆は、南条隆にを中新田城を守らせて、伊達勢の侵攻に備えた。

時に天正16年(1588年)冬、

2月2日、浜田景隆率いる伊達軍は中新田城に押し寄せた。

ところが、泉田重光は近頃、妻の実家である八幡家の家督相続を巡って、留守政景と対立していた。

そのこともあって、軍議の場では、重光と政景は最初から険悪な雰囲気だった。

「このような湿地ではいくさはできぬ!」

と、重光は付城を築いて城を弱めていく戦術を主張した。

「そんなに時間はかけられぬ!数で寄せて一気に城を落とすべきである!」

と政景が主張し、両者は激しい口論になった。

結局軍議では政景の主張が容れられ、中新田城を我攻めにすることに決まった。

伊達勢は大雪の中奮戦したが、重光の軍勢に勢いがない。

ここに登場するのが、黒川晴氏という人物である。

黒川氏は最上氏の分家で、代々陸奥国黒川郡(宮城県黒川郡)を領し、鶴楯城を居城としていた。しかし伊達稙宗の頃に、伊達一門の飯坂氏から飯坂景氏が黒川家に養子入りした。

黒川晴氏はその黒川景氏の孫で、伊達一門であったといっていい。

さらに晴氏は、政宗の叔父の留守政景の岳父である。この点でも伊達家との関係は深かった。しかし晴氏には男子がいないため、大崎義直(大崎義隆の父)の子義康を養子にしていた。

このように、黒川晴氏は伊達家の傘下として、今回の大崎攻めでも後詰として桑折城に入っていた。

この黒川晴氏が、突如離反したのである。

晴氏は、かなりの戦巧者である。

晴氏は、伊達勢の背後を突こうとして、泉田重光の軍勢に勢いがないのを見てとった。

「あの勢じゃ、かかれ!」

晴氏は泉田勢の背後を襲った。

そこへ南条隆信も城門を開けて打って出たため、伊達勢は潰走し、新沼城に逃げ込んだ。

しかし大崎勢に包囲され、留守政景は岳父の黒川晴氏と取引をして、泉田重光と長江勝景を人質に差し出すことで城の包囲を解く協定を結んだ。

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