一領具足⑤

元親が一条家を追放して土佐を統一するまでの間、信長は一進一退を続けている。

天正2年(1574年)、旧朝倉領の越前で一向一揆が起こり、越前は「百姓の持ちたる国」になった。

さらに武田勝頼が明智城、次に高天神城を落とした。

信長は高天神城救援に間に合わなかったが、その後伊勢長島を攻撃し、一向門徒2万人を虐殺した。

そして翌天正3年(1575年)、信長は長篠で武田軍に壊滅的打撃を与えた。

間髪を入れず、信長は大軍を率いて越前に乱入し、一揆勢を男女問わず、4万人虐殺した。

越前から戻ると、信長は安土城の建設に取り掛かる。 


天正3年、元親は雪渓如三と号した。

雪渓には「徳がある人には多くの人が帰服してくる」、如三には「広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じる」という意味が込められている。

(信長はやりすぎた)

元親は思った。伊勢長島で、そして越前で人を殺し過ぎている。

安土に城を築き始めているが、これは隠居城である。これ以上信長の専断が続くと、家臣がついてこなくなる。だから隠居したのだ。

この頃、毛利の外交僧の安国寺恵瓊も、「信長の世、三年、五年は持たるべく候、明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高転びに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と、信長を評している。

(儂は信長の跌は踏まぬ。寛仁大度で四国を制覇する)

そんな元親にも、実は領土欲以外の大望がある。それは、

(小少将を得ること)

だった。

小少将は、最初に阿波守護の細川持隆の妾となり、持隆が殺された後は三好実休の後妻となり、さらに三好実休の死後、篠原自遁の妻となった。細川持隆との間に細川真之を、三好実休との間に三好長治と十河存保を生んでいる。

(傾国の美女じゃ)

何しろ細川持隆を殺したのは三好実休であり、三好氏の家臣である篠原自遁の妻になると、自遁の兄で三好長治の後見人の篠原長房から、主君の妻を娶ったことを批判された。すると自遁は、長治に長房を讒言して殺させた。

土佐では、元親は教養のある方で、最近は『三国志』を読んでいた。

(曹操は傘下の張繍の叔父の妻を妾とし、孫策と周瑜の妻の二喬を得るために赤壁に挑んだ)

元親は、傾国と言われる美女が欲しかった。

(信長の舅の道三は、主君の妾の深芳野を賜ってその色香に狂った)

四国に美女無しとは言わない。

しかし、傾国と呼ぶべき女は小少将のみである。

(奥もいい)

元親は思った。正室の石谷光政の娘のことである。

(奥には家庭的な安らぎがある。しかしその安らぎは儂を腐らせる)

元親は、家臣達に小少将の話をした。

「はて…」

と、秦泉寺豊後などは首を傾げた。

「小少将殿は、殿よりお年を召していると思いますが…」豊後は、仮にも阿波守護の母君である小少将に対し敬語を用いた。

その通りである。

それどころか、小少将の最初の子である細川真之は、元親よりひとつ上なのである。母に等しい歳と言っていい。

「何を言う、それは阿波の大方様のことじゃ。儂が言う小少将とはその娘のことじゃ」

元親は言った。

小少将は、三好実休との間に長治と十河存保の他に、娘を生んでいた。

小少将は三好長治を生んで、大方殿と呼ばれていた。

この大方殿が篠原自遁と再々婚をすると、大方殿の娘は、まだ部屋住みの姫君にすぎないのに、母似の美貌から局のように小少将と呼ばれていた。

「しかし曹操は美女で失敗しておりまする。いかがなものかと」

と豊後は言葉を濁したが、福留儀重は、

「殿は大きゅうござる!」

と言って大いに笑った。

戦国の世である。

小少将の利用価値は、細川真之、三好長治、十河存保の妹として、さらに母の大方殿も含めて、阿波の情勢をコントロールできることにある。

しかしそのような後ろ暗いことは、表に出さない方がいい。何しろ小少将のために二人、人が死んでいるのでもある。

成功も失敗も明るく。その方が素朴で単純な土佐人の気質に合っている。

(小少将は多くの波乱を阿波に起こしているが、手元に置いておく限り害はない)

元親は阿波を狂わす傾国の美女を得て、自分を四国制覇に奮い立たせたかった。

(より自分を大きくしたい)

計算より、より自分を大きく見せたい思いが勝っていた。

(さて、篠原自遁に申し入れて、手放すか?)

と思っていたが、申し入れると、自遁は小少将を元親の元へ送ってきた。

母親の大方殿の計らいである。

大方殿は、既に阿波が元親のものになると見ている。

(ならば大方殿が、我が耳となって下さるじゃろう)

『三好記』によれば、小少将は多くの武将と婚姻を重ねたが、それは政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であったという。

阿波人は、阿波を元親に奪われるに当たって、多少の悔しさがあったようである。

その悔しさが、小少将の母の大方殿が元親の側室になったように、後世に記録を残した。そのため大方殿が、60を過ぎて元親との間に子を生んだように記されているが、もちろんそんなことはない。

元親は小少将との間に、五男の長宗我部右近大夫をもうける。


元親はまず、阿波に侵攻した。

阿波は、三好氏の勢力圏である。

その三好氏の阿波での要が、三好長治であった。

三好長治には逸話がある。

ある日、長治が鷹狩りをした。

鷹は鴨を捕えたが、鷹は勇利権之助という侍の屋敷の前に落ちた。

その屋敷の前に若松という少年がいたが、落ちてきた鷹を見て驚いて、鷹と鴨を妨害で打ち殺してしまった。

長治は激怒し、若松を牛裂きの刑にして殺してしまった。

「是非を弁えぬ少年のしたことに対し、なんと残酷なことをなさるものよ」と、領民は長治を非難した。

家老の篠原長房を誅殺してから、長治の専横には歯止めが効かない。

三好長治は、この頃「阿波に住む者は法華宗に帰依せよ」という、無謀な触れを出していた。

この触れのおかげで、すっかり領民の気持ちが去ったかと思い、元親は阿波に侵攻してみたが、阿波の城を抜くことができない。

長治の弟の十河存保や、同じ三好一族の三好康長が長治に味方して抵抗しているのである。

「長治様は、五年は国を保たれるだろう。その後国を失うだろう」

と言った、篠原長房の言葉を元親は思い出していた。

(長治が専横をしても簡単に崩れぬほど、三好の統治は行き届いていたか)

篠原長房は、三好の重臣として、「新加制式」という分国法を制定してもいる、優れた政治家だった。

阿波は、土佐よりも下剋上が進んでいる。

三好実休が細川持隆を殺し、篠原自遁が篠原長房を殺したように、下剋上が日常化しているが、それだけに自らが得た権利を確定したい思いが阿波人にはあった。

下剋上は長期化すると、人を不安にする。

「新加制式」は、そういう阿波人の思いに応えるところもあって、「10年奉公した者は譜代相伝の被官人である」という条文もある。


特に問題なのは、三好康長である。

三好康長は、最近信長に降伏したばかりであった。

元親は、信長と正式に同盟を結んではいないが、信長と利害を共有している。

だから元親の阿波侵攻に対して抗戦しないと踏んでいたが、当てが外れた。

ところで、元親の嫡子千雄丸は、今年11歳になる。

(少し早いが、いい頃合いだろう)

元親は思った。千雄丸を元服させようというのである。それも信長を烏帽子親にしてである。

幸い、千雄丸は聡明で、文武に優れ、体も並の子供より大きい。

元親は、中島可之助を使者として、安土に派遣した。

すると、信長は自分の「信」の字を千雄丸に与え、「信親」と命名した。

「四国は元親の切り取り次第」

と信長は書状を書いて、「天下布武」の公印を押した。

(天下布武…)

受け取った元親としては、複雑な思いにかられる。

「天下布武」とは、地方の勢力に、現状維持を許さない、または難しいという意味ではないか?

(いや、俺は信長に四国を切り取り次第と言われた)

やがて三好康長は、本願寺との和睦の使者に抜擢され、その功により河内半国を与えられた。

(これでよし)

康長は、元親に敵対しないだろう。

元親は、三好長治に反感を持つ、阿波守護の細川真之と手を組んだ。

天正5年(1577年)、元親は阿波の海部城を攻めた。

海部城主の海部友光とは、元親は因縁がある。

元亀2年(1571年)、元親の弟の島親益が乗った船が、嵐を避けるために海部城下の入江に入ったところ、海部友光が親益の船を襲い、殺してしまった。

「親益の仇じゃ!」

元親が大音声を挙げると、一領具足共は大いに気負い立ち、勇んで城の塀に取り付いた。

元親は海部城、続いて大西城を立て続けに落とした。しかし、

(2年かかって2城か)

と、元親は苦い思いでいた。これでは四国統一はいつのことになるのやら。

調略は、充分に行っている。

三好氏の勢力は讃岐にも及んでいるが、三好長治の専横のため、香川之景、香西佳清が連名で、三好長治の弟の十河存保に三好からの離反を警告している。十河存保は動じなかったが、香川、香西は織田方に帰参した。香川、香西は元親の動きを警戒しているため、同盟は結べないが、すぐに元親に敵対する行動を取ることはない。

それで、阿波の2城を落とすのに、土佐統一から2年かかっているのである。

(調略が足りないのではない。土佐の力不足だ)

元親は思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?