彼らのこと

 先週、学生時代の友達と久しぶりに電話で話していて、こんな話を聞いた。

 その友達が今勤めている会社で、ある日の勤務時間でのこと、ある同僚が上司から激しく叱責されているのを目撃したという。傍目から見ていても明らかにパワハラだと思われる出来事で、周囲の人たちも、これはヤバいのではないかと正直ハラハラしながら、それでも見て見ぬ振りをしていたらしい。
 それで、その叱責されていた人が、その日の夕方から居場所がわからなくなってしまって、周囲の人たちで探そうかという話になっていた矢先、居場所がわかったという。会社の非常階段のようなところで首をくくって死んでいたとのこと。そこから先は、救急車や消防車がやって来たりして、色々大変だったらしい。
 で、そんなことがあったにも関わらず、会社側では自殺者が出たことに対して何も問題視するようなことはなく、以前と変わらず何事もなかったかのように日々の業務が続いているとのこと。パワハラしていた上司はなんのお咎めもなしで今も元気に出勤しており、組織や体制が見直されるといったこともないらしい。

 まったくひどい話だと思う。

 ここまで書いていて、つい最近自分の周辺でも似たようなことが起こっていたことを思い出した。あれは三ヶ月ほど前のことだったのだが、私の職場の同僚が、ある日突然命を絶つということが起きたのだ。パワハラが原因だったとか、業務多忙が原因だったとか、しばらく色々と囁かれていた。
 けど、その時も、会社はそのことを表沙汰にしたり、大きく取り上げて問題視するようなこともなく、その人が亡くなった前後で何も変わらない形で、日々の業務だけが回り続けることになって、今に至る。

 まぁ、こういうことは、よくあることなんだろうなとは思う。さして珍しいことでもなく、取るに足りないくだらないことなんだと思う。人の死を、そんなふうに軽く扱うことが、本当はよくないことだとわかっているんだけれども、そうやってやり過ごす以外に道はないような気がして、仕方なくそうしている。

 それにしても、自死を決意させる程の強い苦悩とは、一体どういうものなんだろう。
 私にも、経験がないわけではない。かつて、ひどい状態の職場に勤務していた時期があって、その時は、毎日毎日、死ぬことしか考えていなかった。死んだら楽になれるのにな、そう思いながら、日々をやり過ごしていた。
 でも、本当の死は、その先にはなかったような気がする。死にたいと思うだけで、実行する気はさらさらなかった。そんな度胸は私にはない。では、そこのところの抵抗を押し切って、最後まで実行してしまうという、なんかそこまでたどり着いてしまえるくらいの、深い苦悩というものが、私にはどうしても理解できないのだ。
 職場に行くのが死ぬより辛いなら、行かなければいいのだと思う。実際、私は今までそうやってしのいできた。何日も無断欠勤をして、そのことで「お前は本当に社会人なのか?」と罵られることはあっても、自分で死を選んだりするようなことはなく、なんとかここまでやってこれた。
 それを、しぶとさとか、ずぶとさとか、そういうふうに言うんだろうか。別に誰になんと思われても構わないのだが、死ぬこと以外の逃げ道を、彼らはなんとかして模索することはできなかったのだろうか。

 ここで今さら彼らに問いかけることに、もうなんの意味もないのだが、それでもやはり、残された立場からは、そう問いかけてしまうのだ。
 きっとこれからもずっと、人間の社会が存続し続ける限りは、こういうことは起こり続けるのだろうし、その度にこの問は繰り返して唱え続けられることになるのだろう。そうやって、中にいる人間の気持ちは、ずっと置き去りにされたまま、世の中というものは回っていくのだ。

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