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【小説】うつせみの代わりに 第10話 ログアウト

 ログアウトというのはこの世界との接続を切る、ということだろう。
 ウインドはひかるには見えていないようだ。
 ひかるを部屋に上げると散らかってるのが気になった。片付けたかったがもうひかるに見られたわけだしまあいいかと居直った。
 ひかるはキョロキョロ部屋を見回しながら泣いている。
 ひかるにログアウトの表示について伝えた。ログアウトを許可すればいつでも消失することができるようだと。
 辞世の句を詠む気にならないのは、死ぬのではなくこの世界を去るからで、ひかるや店長や伊藤先輩にも別れを告げるというよりは「ちょっと行ってきます」という程度の想いしかない。だが逆の立場になって考えてみると、確かにもう会えないことが分かっている訳で、それはとても辛く悲しいことだろうな、とも理解できた。

「じゃあ、ログアウトするね」
 そう告げるとひかるはさらに涙を流した。このまま枯れるまで泣き続けてしまうのではないかと心配になるほどだった。
「あっ、あっくん、に、うぐっ、あ、会ったら、叱っどいで、うぅ」
 ひかるは泣きじゃくりながら、途切れ途切れにそう言って、弱く微笑んだ。
 それを見届けて僕はこの世界からログアウトをした。



 そこは異質な空間だった。
 色鮮やかで常に色彩が変化し続けていた。
 ダイヤモンドやサファイアのようなキラキラとした紅葉の大嵐が遥か遠くまで一面に広がる。
 音もメロディやリズムがあるのか無いのか、常に何かは奏でられているのだが、それが何なのか把握することはできなかった。
 重低音が折り重なって出来た大草原が心地良い。
 味覚についても不思議な感じがした。今まで味わったことが無いような味が常に変化し味覚を刺激している。香りも同様だった。不快ではないが快というわけでもない、嗅いでいるというよりも、香りの刺激が脳を超えて魂に直接語りかけてくるような、不思議な感覚だ。
 舌と鼻をリズム良く刺激する黄金色に輝く蜜が幸せな気分にさせてくれた。



 そもそもだが、僕の肉体というもの自体が上手く認識できない。感覚が拡張されているような感じで、僕の手が遠くにあるような、腹や太ももや、首や、頭などが、全て別々の場所に存在しているような、これまで体験したことが無い状態になっている。
 肉体と呼んでいた魂を覆っていた入れ物は僕のここにあると認識できるのだが、肉体そのものはもはや存在せず視覚でそれを捉えることができない。そもそも視覚という矮小なものでイメージを捉えることが無く、全て開かれた感覚により受信している。
 ログアウト後の僕の肉体のイメージをビジュアル化すると超巨大で醜悪なとんでもない化け物になるだろう。だがここではそれが当たり前だと分かる。僕は元々こうだったのだと思った。
 もしやこれらは僕の意識の範囲なのではないか。さっきまで居たログイン中の時は肉体と魂が結び付いていて、触れるものは手が届く範囲だし、移動できるのは足が動かせる距離だ。そして目の届く範囲まで見渡せ、聴覚が拾える範囲の音を拾って生きてきた。魂が肉体の中に閉じ込められていた。
 だがログアウトをした今は違う。意識した分だけ感覚が広がっている。魂はここにもあるし、はるか遠くにもある。そんな感じだ。常に何かを受信していて、ログイン中だった時の僕の脳の許容量ではとてもじゃないが処理し切れない情報量であるのは間違いない。
 そして驚いたのはさっきまで居た世界を「ログイン中」と自然に表現したことだ。メガネやあごひげと会ったあの世界は。文月やひかるが泣いていたあの世界は。僕の魂がログインしていた世界なのか。


 この異質な空間に僕は漂っている。
 そして全てがとても心地よかった。
 彩りが耳心地良く、音色が色彩鮮やかだ。
 こちらの世界が正しく、ログインしていた方の世界こそが間違っている。現に僕はこちらの世界で「生きている感じ」が十全に満たされている。あんな狭いところで生きるのを悩んでいたのか、と可笑しくもあった。


 思考についても不思議だった。
 疑問に思ったことが頭に浮かんだ瞬間に回答が与えられる。回答が天から降ってくると言えば一番近いのか。疑問が、疑問の瞬間に、すでにすべて解るのだ。
 教えられるというよりも、すでに前から知っていたという感じだ。まさに万能感。まさに森羅万象。全てがひとつだ。かと言って自分が神になったと勘違いすることなどあり得なかった。
 ログイン世界で生きていた時よりは神に対する認識が明確になったが、ログアウトしたからと言ってこの僕ごときが神に近付けたわけではない。この空間を漂っていればそれが理解できる。森羅万象になったところで神にはなれない。



 この世界は言語など必要としない。すべては光や音、揺れ、温度、圧迫、味覚、匂いなどなど、様々な刺激が変化したり流れたりまとわりつくことで魂にメッセージが受信される。
 たゆたっているだけで、すべてがわかる。脳で考えたり感じたりしているのではなく、魂がこの世界に反応している。そんな感じだ。


 エメラルドの鮮やかな緑色が小雨のようにさらさらと全てを覆い、しゃらしゃらと耳心地の良い音を響かせている。その緑色はとても香しく、ずっとここままだったら良いのにとさえ思った。





 ログアウトしてからどれぐらいの時間が経過したのだろう。
 そもそも時間という概念がここに存在しているのだろうか。

 メガネとあごひげのことを想う。すると2人と会話することが出来た。2人との会話はとても楽しく、いつまでも話していたいと思った。
 「2人」というのは正しい単位じゃないのかも知れない。 
 この世界では僕もメガネもあごひげも同じで、同じだから別々に意識する必要は無い。ずっと僕たち3人は1つだ。
 だから必然的に会話(魂の刺激の交流)はログイン世界の出来事についてだった。
 なぜログアウトしたのか。
 その理由に納得した。
 端的に言えば、ログイン中の世界は偽物で、ログアウトして訪れたこの世界が本物だからだ。彼らは僕なのだから納得できるも何も無い。全てわかっていたことだ。

 伊藤先輩も、店長も、ひかるも、神在月マリスも、チャーミーも、丸久悠も、すべて偽物の世界を走るプログラムでしかない。人工知能のようなものだ。もちろん僕もメガネもあごひげもそうだ。
 ログインしている間は自身がマリオであることに気付けないし。マリオを生み出した宮本茂についてマリオ自身が思考することが不可能なように、ログイン中の僕もこのログアウト後の世界の存在を思考することなど出来ない。
 ログイン中はその世界のルールに従ってそのように生きるしかない。

 僕が「人生を生きている感じがしない」という感覚を抱いていたのは当たり前としか言いようがない。ログイン中は生きていない。ただのプログラムなのだから。
 ログアウトしたから生きている。
 霜月朝陽3人はなんだったのだろう。
 天が僕に分かりやすい単語で教えてくれる。
 なんでもない、と。ただ、そのようになっただけだ、と。ログイン世界で生じたプログラム上のミスなど些末なことである、と。
 同姓同名同顔の人物が何人居ようとも、人体が突然消失しようとも、些末なことである、と。

 時々僕らのようにログインを切断する生命が居るらしい。統合失調症のような形で発現することもあれば、神隠しのような形で発現することもあるらしい。世間では誘拐事件や失踪事件のように認識されることが多いようだ。
 これまでに約10億もの生命がログアウトしていて、それらがこの空間に存在している。
 そのことを教えてもらうと、10億の魂の意識が僕に流れ込んでくる。詰め込まれたとも言える。僕の器は底も無く果ても無いため、10億の意識など簡単に受け入れてしまうのだ。10億の感情が、思考が、匂いや味が、色や重さが、ありとあらゆるものが、すべて理解できた。鷲の視界やミツバチの倫理観、鯨の慈しむ心など、ありとあらゆるものが理解できた。


 文月源太郎のことを想う。
 するとログアウトした文月(うわばみ)と魂の刺激の交流が出来た。
 うわばみはそう呼ばれていただけのことはあって、酒のようなものを飲み続けていた。この世界には「酒」も「口」も存在しないため、あくまでそのように認識できたということだ。

 チャーミーのことが気になった。
 ログイン中はとても頼りになったと感じたが、実際は怖い女だった。
 天の説明では、チャーミーもプログラム上のミスとのことだった。
 ただ、あのような鋭い推理力と人並外れた近くを持つ女にプログラムされただけだった。僕をログアウトさせるために組まれたわけでもなく、ただチャーミーはチャーミーだった。
 直感が鋭いのは規格外のようで、そのような人物はログアウト後の世界とも近い存在であるらしい。ログアウト後の世界の倫理観で生きていれば、そりゃあ僕が消失しようがどうしようがどうでも良いと感じたことだろう。
 チャーミーには僕たちのようなログアウトの権利が無いため、それが可哀想だなと思った。

 ひかるのことも気になった。
 あごひげも僕の思考に加わる。
 なぜひかるを残してログアウトしたのか聞いてみると、弾丸が装填された以上はもうあのログアウト表示画面が消えないと悟り、半ば自暴自棄になっていたそうだ。家にいる間ずっとあの表示が眼前に現れ続け、ひかるの顔も良く見えないのであれば、それは確かにログアウトしたくなるだろうなと思った。
 あごひげはログアウトしたのがついさっきという認識のようで、僕との時間感覚の違いに驚いている。僕はもうここに来てから数年は経っている気がしているのだが。

 自室で亡くなったとされる文月源太郎も、もしかしたら何かのきっかけで同姓同名同顔のことを知り、謎を追うことで弾丸が装填されたのかも知れない。何も情報が無ければ自分の頭がおかしくなったと思ってもしょうがないだろう。誰にも見えないログアウト表示に苦しめられ自殺したのかも知れない。今となってはもうそんなログイン世界の謎など調べようがないが。

 ふと伊藤先輩のことを想った。
 彼もただのプログラムで、同じくただのプログラムでしかない僕と、プログラムに従って楽しく会話を重ねただけだ。伊藤先輩を想うと、かなりセンスがあるな、と感じた。あのような人をログイン世界に配置するなんて、あの世界を作った人はセンスがある。人ではないのか。天か。天が作ったわけでもないそうだ。ではログイン世界は誰が作ったのだろう。「誰」という問い自体がナンセンスであると悟る。ただあのようになっていただけなのだ。あの世界は。そしてこの世界も。神のご意志など我々に知覚できるはずが無いのだ。
 伊藤先輩が勧めてくれたアニメのことを思い出した。その途端、彼との会話で出てきた全作品の情報が僕に流れて来そうになったのでそれを止めた。もったいないと感じたからだ。そのもったいないと言う感情はこのログアウト世界では全くの無意味だ。だけど、アニメをそのようにして取り込みたくなかった。いまさらログイン世界で目と脳を使ってアニメを鑑賞することなど無いのに。

 そこまで考えて新たな疑問が浮かぶ。
 もうログイン出来ないのか?
 天はすぐ回答を与えてくれる。
 ログイン出来る、と。

「え?」
 思わず声に出す。もちろんこの世界では「声」という音声シグナルは存在しないため、実際には僕の周りの光とメロディとリズムと温度と匂いと味と………などが極微小にゆらめいて変化しただけだ。
 ログイン出来るのか。どうやらその後このログアウト世界に戻ってくることは出来ないとのことだ。

 特に迷うこともなく僕は再びログインすることを決めた。
 メガネとあごひげに戻るか確認すると、彼らはログアウト世界に残るそうだ。
「ひかるに会いたくないのか?」
「AIと知っちゃうとなぁ」
「人工知能だとしても魂はあるぞ。僕らと同じだ」
 3人でああでもないこうでもないと楽しく戯れた。
 同じ3人のはずなのに決断が違うことが面白いと思った。
 メガネは哲学的思考に埋没するために残るそうだ。
 彼らとは僕の感覚で何十年も哲学的対話を重ねた。一瞬のようにも感じられたその対話によって互いの決意が変わることはあり得なかった。ただ、楽しかった。



 どれぐらいの時間が過ぎたのだろう。時間という概念が存在しないため分からない。僕がログインしたらどうなってしまうのか。3,000年後にログインして地球上に誰も居ない、ということは無いだろうか。そもそも僕は誰としてログインするのだろう。日本人としてログインできるのか?
 天によると、いつでも良いし誰でも良い、とのことだった。そんなもんなのか。
 僕は迷わずログアウト前と同じ霜月朝陽を選択し、時間もひかるに別れを告げたログアウト直後に戻ることにした。
 特にお別れなどもしない。ログアウト世界にはお別れなど存在しないからだ。全ては1つだ。

 再ログインしようとするとこれまでに無いような光と音と輝きと香りと………が僕の魂を覆ってくれた。再ログイン自体滅多に無いのだろう。
 そして僕は再ログインをした。

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