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【小説】うつせみの代わりに 第8話 文月源太郎

 あれから何年経ったのだろうか。
 あの日私は生きるために必要なものを失った。
 諦めや逃げ。それらが私の中にあった魂の熱量のようなものを奪い去ってしまった。そのおかげで私はいまだにこの世界に存在していられる。だが今ここにいる私は、果たしてかつて魂がたぎっていた頃の私と同一人物なのだろうか。
 共に同じ時代を生きていたはずの私と同じ顔同じ名前の彼。会うこともなくこの世界を捨ててしまった彼が、もしふと私の目の前に現れたら。私は恥じることなく彼に自信を持って、強く目を見つめながら「お前らの分もこの世界を生き抜いたぞ」と言えるだろうか。
 神在月マリスから連絡が来た時、あの時の恐怖と、これまで何年も蓄積されてきた後悔と、何年も熟成されてきた怒りとが同時に私の中に生まれ、それらが激しく混じり合っていくのを感じ、スマホを持つ手がガタガタ震えた。私の中に残っていた感情が一気に膨れ上がり行き場を失っている。そんな震えだ。
 これは私に与えられた使命なのだと直感した。神在月マリスからのメール通知を見たほんの一瞬に、私は以上のことを考えたのだった。
「例の件で会って欲しい人がいます。お時間いただけませんか?」
 空を見上げると黒ずんだ雲が陰鬱さを加速させる。私の目の前で同姓同名同顔の文月(通称うわばみ)が消失した日と同じ雲だ。

 消失する条件は簡単だ。「同姓同名同顔の人物と会うこと」そして「その謎を追うこと」だ。それがうわばみから教わったことだ。その後うわばみはそれを証明するかのように私達の存在の謎を追う決意をし、そして目の前で消失した。
 消失を目の当たりにした私は生き残るためにすべてから逃げる決意をした。謎は絶対に追わない。すべて忘れる。うわばみは私に生き残るよう託したのだ。都合よく勝手にそう解釈した。怖かったからだ。そうして私からは熱意が消え、軽くなってしまった魂を、この老いていくだけの肉体に情けなく添えて、今日まで生き延びている。

 私が初めて同姓同名の存在を知ったのは訃報だった。それが始まり。
 知り合いから「文月源太郎が亡くなったと聞いて驚いて」と連絡が入ったのだ。そう多くない名前のため珍しいこともあるものだと他人事のように思っていた。
 それから数日後、文月源太郎を名乗る者から連絡が来た。訃報の件もありいたずらにしては度が過ぎると感じた。怒りと薄気味悪さを抱いた。私が文月源太郎だと知ってあえて同じ名前を騙っているという点と、死者の名前でもあるこの名を騙っている点と。
 だがその連絡を寄越してきた人物は紛れもなく文月源太郎であった。私と同じ名前、しかも同じ顔をしていた。同じ声で、見たところ指紋まで同じようだ。彼もあの訃報を知り、「文月源太郎」について調べ始めたとのことだった。死んだ文月のことを調べている過程で私の存在を知った彼は、直感的に会わなければならないと感じたそうだ。
 死んだ文月。私に会いに来た文月(酒飲みなのでうわばみと呼んだ)。そして私(うわばみからはのんびりと呼ばれた)。
 それまで互いに存在を知らなかった私達。この状況に対して心が躍ったのは事実だ。うだつが上がらない人生を過ごしてきたが、もしかしたら私は主人公なのかも知れないと思った。この数奇な運命を受け入れることで、すごいことが起きるのではないか。そう思った。うわばみもそう思っているだろう。私とうわばみとが力を合わせることで何かに立ち向かえるのでは。そしてそれは死んでしまった文月の敵を討つことにもつながるのでは。そんなことを考えていた。
 今思えばそんなもの、ほんとどうしようもないものだ。
 死んだ文月のことを調べれば調べるほど、解決不能であることを悟り、想像をはるかに超えた何かに近づいている予感がした。我々は3つ子、あるいは親戚同士なのでは無いかと考えた。だが全く血縁関係に無かった。お互いの親も全然違う。養子でも無い。ただ、私と同じ顔で同じ名前の人物が各地に計3人居たということしかわからない。何も進展しないまま月日が経った。私はうわばみほど熱心に調べようと思ってはおらず、不思議なこともあるものだ、という感覚だった。一方うわばみは、DNA鑑定やら亡くなった文月の身辺調査など、探偵とともに熱心に真相を探ろうとしていたようだった。
 そして、重いねずみ色の雲が空を覆いつくしたあの日。うわばみは私の目の前で消滅した。
 音も無く。私以外の誰にも気付かれず。消滅したという感じも無かったので、私の頭がおかしくなってしまったのではないかと真剣に思った。人が消えるわけがない。そもそも文月の訃報も、私と同姓同名同顔のうわばみも、すべて私が頭の中でそう思っていただけなのではないか。この世界の主人公になろうとした哀れな男が生み出した、私の頭の中だけに存在する妄想なのではないか。そのように思った。

 うわばみが目の前で消滅した日から、私は悪夢を見ることが多くなった。私が消える夢や、うわばみが何度も繰り返し繰り返し私の目の前で消える夢。会ったことは無いのに亡くなった文月がいろんな方法で殺されてしまう夢も何度も見た。
 夢か妄想か。そう信じたかった。だが恐ろしいことに、すべて現実で、その後訪ねてきた男(のちに探偵神在月マリスと知る)からうわばみと調査したとされる結果を教えられた。
 私はそれらを知り、全てから逃げてこれまで生きてきたのだ。
 そして私はスカスカの50歳になっていた。

「例の件で会って欲しい人がいます。お時間いただけませんか?」
 私は震える指でミスタイプを繰り返しながらも「わかりました」と返信を打った。

 数年ぶりに会った探偵は少し老けて見えた。同じく私も老け込んでいることだろう。探偵の横には高校生くらいの女の子が座っていて、熱心に手帳に何かを書いている。
「助手でして。主に頭脳担当を」
 私の目線を察してか探偵が説明する。この少女が頭脳担当ならマリスは何担当なのか。
「神在月の調査報告によりますと、文月さんは神在月と共にご自身にまつわることをかなり細かく調べていたようですね」
 少女がすらすらと語り始めた。
「いえ私は特に何も」
「失敬。あなたがうわばみと呼んでいる文月さんが、です」
「あぁ。そうでしたね、彼は熱心に調べていました」
 そして私の目の前で消失してしまった。まるで自身を実験体とするかのように。私はそれを思い出し、あの日から幾度となく繰り返してきた苦悶の表情を浮かべた。もはやルーティーンと化したその表情作りは、眉間のしわの深さに反比例して魂は軽くなる。形骸化した儀式のようだが自動的にこの表情になってしまう。
 私のその表情を見つめる少女の眼差しは、慈悲深さを湛えながらも、どこか薄ら怖さもあるように感じた。まるで蟻の巣をただ眺めているかのような。その蟻の巣を、いつでも、どうにでも出来ると考えているかのような。そんな怖さだ。
 マリスはと言うと、そんな眼差しの少女をスマホで撮影していた。彼は撮影担当なのだろうか。プロモーションビデオを撮影しているのか?そんな疑問が浮かび我に返る。

「うわばみさんが消失した時のことをおうかがいしたいのですが」
 それを聞くと私の身体は隠しようが無いほど硬直した。「消えたくない」その一心で何も漏らしてはならないと全てを拒絶してしまうのだ。それは私自身の心も魂も拒絶してしまうほどに。
 うわばみ消失後、明らかに雰囲気がおかしくなった私に職場の人間が心療内科を勧めてきたが断った。なんと説明しろと?目の前で同姓同名同顔の男が消失しました。だから私も消えてしまうのではないかと恐怖で気が狂いそうなのです、と説明すれば良いのか?それで何が解決するというのか。

 消失条件。「同姓同名同顔の存在だと認識すること」「その謎を追うこと」。私が自身の謎を追っていると思われてはならない。神なのか、それとも悪魔なのか。それは分からないが、とにかく私は何も知らない。何も考えない。

 私が押し黙ってしまったので少女は話を変えた。
「今日お呼びしたのはある人物についてお話ししたかったからです。彼らは、いや、すでにもう彼一人ですが。彼は窮地に立たされています」
 その言い回しから私はその彼の状況を察知し顔を上げて少女を見つめた。恐らく睨みつけているような顔をしていただろう。
「まさか、その彼も私のような……」
 少女がゆっくりうなずく。
「名前は霜月朝陽と言います。同姓同名同顔の彼ら3人はとあるきっかけで出会い、そして2人が消失しました」
 神在月マリスが淡々とセリフのように説明する。私はもう全身が蒼白していた。頭の中で「これ以上踏み込んではならない」と私が叫んでいる。数年間逃げ続けてきた私が頭の中で叫んでいる。筋肉の硬直がより強まり、視界がぐるぐると動きじっとしていられず、目の前のテーブルに突っ伏しそうになる。全身の血が激しく駆け巡っている。さらに視界がぼやけてきた。

「文月さん。あなたの助けが必要です」
 神在月マリスが震える私の手を取り、目を見つめながらそのように言った。
 私のカラカラになった魂が、軽くてスカスカになった魂が、削げ落ち尽くした心が、その言葉によって少し脈を打ち始めたのが分かった。強張っていた肉体も少しずつ緩み始めた。
 少女はまたあの蟻の巣を眺める眼差しで私のことを観察している。

 私はおそるおそるうわばみとの事を話した。その多くは神在月マリスも知っている事だと思われたが、マリスも少女も黙って私の話を聞いている。
 そして私は、「うわばみは自身の謎を追ったから消失した」と告げた。
「そうですか」
 少女はそっけなく言った。この告白により私自身が消失するかも知れないと言うのに、この少女はまったく興味がないと言うような態度を取っている。冷静になって後悔が押し寄せてきた。なぜ私はこんな危険なことを初対面の少女に言ってしまったのか。先ほど「踏み込むな」と頭の中で警告が鳴ったのに。
 少女への怒りと、消失するかも知れないという恐怖とで気が狂いそうになる。身体がガタガタと震え始めた。
「あなたは消えていませんね」
 ポツリと少女がつぶやく。
「へ?」
 間抜けな声で返事をしてしまった。
「今あなたは消失してません。うわばみさんはあなたの目の前で消失しました。この違いはなんでしょう。消失には他にトリガーがあると思いませんか?」
 言われてみれば少女の言う通りだ。うわばみはなぜ消失したのか。他に条件があると言うことか。うわばみが消えた時、なぜ私も消えなかったのだろう。

 3日後の土曜日に、池袋駅の近くにあるサンセットムーンライズという喫茶店で霜月朝陽と神在月マリスと少女が初対面するそうで同席を促された。私がその霜月という男に会ったところで何もしてあげられることは無いため断った。
 結局私は何も変わらない。やはり私からは魂も心も抜け落ちてしまったのだと思う。うわばみは私をこの世界に残すために自らを犠牲にしてくれたのだろう。だが私は誰かのために自分を犠牲にすることなどできない。ただの50歳のおじさんだ。
 うわばみの家で語らいながら飲んだ酒は美味かったなとふと思い出した。うわばみの家にはいろんな種類の酒があって、普段飲まない私のために私の口に合いそうな酒を選んでくれた。酒に興味が無いのでなんという名前の酒か覚えていないが、味はしっかり覚えている。笑い合ったり真面目に話し合ったことも覚えている。
 そこまで思い出し、ふと心がざわついた。
 うわばみが消えたのは彼の家だった。死んだ文月源太郎は自室で亡くなったと聞いた。もしかして消失のトリガーというのは「自分の家」なのか?
 そのことに気付いた瞬間、私の頭の中で、明らかに私の意思ではない何かが警告を鳴らした。
「あ」
 思わず声を漏らした。
 神在月マリスと少女が私の方を振り返る。
 このことを2人にばらしてはいけない。
 そして、私はもう家に帰れない。帰ってしまったら私は消失するだろう。

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