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「人間は何のために生きるのですか?」という問いを抱ける小学3年生に向けて

 小学3年生の子が新聞の投稿欄に「人間は何のために生きるのですか?」という質問をしたそうです。
 回答者がどのように答えたのかは読んでないのですが、僕なりに回答しようと思い立ちました。

■効果が見えるかどうか

 小学3年生のきみへ

 人間は何のために生きるのか。
 そこに気づくなんてきみはとても見込みがある有望な若者です。

「見込みがある有望な若者」というのはわかりやすく言うと「めちゃくちゃすごい」ってことだ。

 人間は何のために生きるのか。
 この問いは、人間がこの地球に生まれてから今にいたるまでつづく、とても大きな問いです。

 たとえば、ゲームが上手になるために何回もプレイするとか、虫歯にならないために歯をみがくとか。これらはわかりやすい。

 なんでかというと、効果が見えやすいからです。
 もしゲームを何回もプレイしなかったら。
 もし歯をみがかなかったら。
 効果がどうなるか想像しやすい。
 効果が想像しやすい「○○のために△△する」は、納得しやすいでしょう。

■生きることで何か効果が得られるのか

 だけど生きることはちがう。
 効果が想像しにくい。
 「○○のために生きる」
 この言い方だと、生きてると何かある、と考えてしまいます。
 「ゲームが上手くなるためにプレイする」という考え方と同じだと思ってしまうのです。

 生きてると何か効果が得られるのか。
 それは誰にもわかりません。
 学校の先生にも。政治家にも。マンガ家にも。もちろん僕にも。

 つまり君への質問に対する答えはこうなります。
「人間は何のためにも生きていない」
「人間は何かのために生きているわけではない」


 以前書いた「生きる意味について」の記事です。よかったらこちらも読んでみてください。


■操作可能性と操作不可能性

 「【ゲームをプレイし続ける】と【上手になる】」
 「【歯をみがく】と【虫歯になりにくい】」
 「【冷蔵庫からたまごを出して】【たまご焼きを作る】」
 これらは【何か】をすることで【効果】が出るものです。

 それをここでは「操作可能性」と呼びます。
 自分でなんとかできるということです。

 それに対して「【生きる】と【何かのためになる】」というのはわかりません。
 生きていると、予想も出来ない効果が起こるからです。
 自分が思う通りにはなりませんし、望む通りのことは起きません。
 僕は日本が平和になることを望み、そのために生きていますが、全然平和になりません。

 それをここでは「操作不可能性」と呼びます。
 自分の力ではどうすることもできないということです。

 「人間は何のために生きているのか」
 年を取ると「何のため」というのが見えてくると思います。
 だけどさらに年を取ると「やっぱちがったかも」となります。
 そしてまた別の「何のため」というのが見えてきます。
 でもそれもまた「これもちがったかも」となります。

 学校の先生も。政治家も。マンガ家も。僕も。みんな何のために生きているのかしっくり来ていません。
 だから決めても良いんです。君が。君だけの「○○のために生きている」を。
 いつか「ちがうかも」と思っても、大人になったら「やっぱちがわないかも」と思うかも知れない。
 それか「もうこれに決定して生き続けよう」と決めてしまっても良い。

 「人間は何のために生きているのか」
 これに対する答えは無い。
 だから自分で勝手に決めても良い。

■人間は自分のために生きている

 これまでをまとめてみましょう。

 「何のために生きているのか」という問いは答えが無い問い。

 多くの人たちが答えを出せないまま。

 なぜなら「虫歯にならないために歯をみがく」というような、効果が想像できる操作可能なものではないから。

 だからいつの日か「ちがったかも」と感じることを踏まえて、自分で勝手に「○○のために生きる」というのを決めてしまって良い。

 このようなことを書いてきました。

 ではこれらをすべてまとめて答えるとしたらどうなるか。
 それは「人間は自分のために生きている」です。

 すべての人間に当てはまる同一の答えなど存在しません。

 たとえば「愛のために生きている」としましょう。
 では愛を知らない人は生きてちゃダメなのでしょうか。
 そんなことはありませんよね。
 「愛のために生きる」という人もいれば「美味しいものを食べるために生きる」人もいる。「飼い犬のために生きる」人もいたり、「理由はないけどとにかく楽しいから生き続ける」という人もいます。

 つまり、みんな「自分のために生きて」良いのです。というかそれしか無いでしょう。

 人は何のために生きているかわからないし答えは無い。
 だから君自身が何のために生きるかを決めても良いんです。
 誰かの考えを聞いて「それ良いかも」と思っても良い。「それはちがうと思う」と思っても良い。

 「何のために生きてるんだろ」と考えることができるのはとても素晴らしいことです。小学3年生だけじゃなく、中学生になっても高校生になっても「何のために生きているんだろう」となやむことも無く生きていける人たちがいます。なやむことを早いうちからやめたり、なやまないほうが頭が良いんだと思い込んでいる人たちもいます。
 だから君の問いはとてもすごいことです。

「良い問いは答えよりも重要だ」と言った人がいます。僕もそう思います。問い続けられる君は素晴らしい。

■おわりに

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 この「何のために△△する」というのは効果が見える場合はとても良い。だけど効果が見えない(操作不可能性が高い)場合はとてもあぶなっかしい。

 たとえば君がプロ野球選手になるために生きると決めたとしましょう。
 だけど野球の練習をいくらしてもなかなか上手くならないし、ほかに同い年ですごい選手がいっぱいいるのを知ったとしましょう。
 プロ野球選手になれないと思ったとき、君は生きるのもやめてしまうのだろうか。
 僕としては絶対にそうなって欲しくありません。
 でもそこまでの覚悟を持ったことはすごいことなので「プロ野球選手になるために生きる」と決意したことを否定しません。

 このあたりのバランスがとてもあぶなっかしいと感じる理由です。
 効果が見えないことを生きる理由とするのは素晴らしい。でもそのためだけにすべてを捨ててしまうのは悲しい。

 まとめておわります。

 まずは「自分のために」生きよう。
 そして「○○のため」の「○○」が見つかったらそれに全力を出そう。
 もしそれがダメだったとしても、決して君がダメになったわけではない。また別の「○○」を見つけよう。

 「○○のため」が無くても良い。
 生きる目的が無くてもこの世界は素晴らしい。

 この世界は意思や努力ではどうにもならないことがたくさんあります。勇気や力を出してもどうにもならないし、命をかけても人生をかけてもどうにもならない。
 それらのために生きるのはとてつもなく大変です。
 そして、もちろんそれらのために生きたって良い。

 すべては自分のため。自分のために生きてください。
 君がだれかを助けたり、笑顔にしたり、想いをつたえたりするのも、すべて自分のため。
 自分のためだけに生きて、それで周りも幸せになったら、それはとてもゆかいなことだと思いませんか?


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