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妊娠後期、妻の献身とでんぐり返し

5月中旬火曜日の午後14時過ぎ、私は椅子に座って見るでもなく繰り返し臍帯血バンクの案内を流すディスプレイを眺めている。
隣に座る妻は、プレッシャーをかけないようにさりげなく背後の様子を窺っている。
受付番号が呼ばれる前に母子手帳に数値を記載する必要があるのだが、血圧計と体重計はそれぞれ別の女性が使用中なのだ。

今日は妊娠33週の検診なので仕事は午後休を取得し、産休中の妻とは今先ほど病院で合流した。
総合受付を通り過ぎた先、渡り廊下のさらに奥にある産科の待合室は今日も空いている席が目立っているが、男の私が椅子に座っているのはやはりどこか気まずい。
とはいえ、席が空いているのに突っ立ているのはあまりに間抜けすぎる気がするし、ずっと見下ろされているのでは妻も落ち着かないだろう。
それに今日の私は気まずさとは別に、いつもより少し緊張しているのだ。

初めてのことではないが、2週間前の妊娠31週の検診に私は立ち会うことができなかった。
ひとりで検診を受けた妻は産科の先生から、お腹の子供が頭を上にして腰を折り、足をまっすぐに延ばしていることを告げられた。つまり、体の柔らかい逆子である。
先生によると、2週間後の今日の検診までに逆子が治っていない場合、帝王切開での出産を具体的に考えなければいけないとのことだった。
広く知られている方法であることは分かっているが、出産前後の妻への影響を考えると、やはり少し心配だ。

妊娠後期ともなると、初めのように不確かな振動を胎動だと信じるのではなく、内側が撫でられていたり押し出されていたりなど、そこに確かに骨の入った子供の体があることが感じられるようになっていた。
さらに我が子が逆子であると知った後は、頭や肘などをより明確にイメージできるようになったのだが、この2週間で特に胎動の様子に変化はなく、お腹の子供が体勢を変えているとは思えなかった。

無事に血圧と体重を測定した後、すぐに受付番号1110番が呼び出される。
3番の診察室に入り、鍵を閉める。
いつものように妻はカーテンで仕切られた診察台に乗る。
診察が始まるとすぐに先生は言った。
「あっ、頭ありますね。よかったよかった。」
あまりにも自然に言われたので一瞬なんのことかと思ったが、逆子が治っているということらしい。
先生は一通りの診察が終わるとさらに言った。
「順調ですね。胎動も元気だし、最高。」

少し安心した私は、まだ生まれてもいない息子を褒めてあげたい気分になっていた。
だが、冷静に考えてみると、妻は前回の検診の後すぐに逆子に効くお灸のお店を訪ねて、毎日お風呂上りに足首の少し上と小指の側面で兎の餌のような草の塊に火を点けてくれていたではないか。
寝る前に欠かさず、海外ドラマを観ながら逆子体操もしてくれていた。
体重1,900gのまだまだ未熟な息子が成し遂げたでんぐり返しが、妻の献身的な支えのおかげであることは疑いようがない。

父親になるのだ。
これからもただ可愛いとか、偉いとか、凄いとかだけではいけない。
私はいよいよ死ぬまで、妻や我が子、周りへの尊敬と感謝の気持ちを忘れずに、精一杯の責任を果たしていかなければいけないのだ。

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