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人と人とのつながりを「踊る」――ダンサー・マニシア インタビュー【前編】

2022年1月20日(木)から23日(日)の四日間、福岡からダンサーのマニシアさんをお招きして、堺市内の各施設、およびフェニーチェ堺でコンテンポラリーダンスのワークショップ〈まるくわをかく「おどる」ワークショップ〉を開催します。上手に踊れるようになるのではなく、踊りを通して新しい自分に出会えるような、のびのびとした場にしたい――そんなワークショップをリードするマニシアさんに、これまでのご活動やダンスへの向き合い方についてお話を伺いました(この記事は2022年1月20日に堺市文化振興財団ホームページ上で掲載されました)。

――マニシアさん、まずははるばる大阪・堺までお越しいただきありがとうございます。はじめに自己紹介を兼ねて、普段のご活動について教えてください。

マニシアです。よろしくお願いします。日頃、地域では子どもから大人までを対象に、コンテンポラリーダンスを教える活動をしています。「誰でも踊れるよ!」という精神をみんなに知ってほしいので、障害のある人もない人も、ご高齢の方でも踊れるような場を作りながら、私自身も踊り続けています。

――「コンテンポラリーダンス」というと、「何なんだそれは?」という人はまだまだ多いと思います。マニシアさんにとっては、コンテンポラリーダンスとはどんなものなのでしょうか。

まず、私は子どもの頃にモダンバレエを習っていました。1977年にミュージカル『サタデー・ナイト・フィーバー』が大流行した後、世の中では映画『フラッシュダンス』(1983年)や、その中で登場したジャズダンスがブームになりましたが、当時20代だった私はジャズダンスがかっこいいと思い、ジャズダンスを学ぶためにニューヨークに行くことにしました。その頃はまだ、コンテンポラリーダンスというジャンルはありませんでした。私はそれまでモダンダンスを習ってはいましたが、モダンバレエとも違い、もう少し自由があるダンスだと感じていました。

同じ頃、70~80年代とは、まさにコンテンポラリーダンサーのピナ・バウシュが盛んに活動している時でした。私の周りでも次第にモダンバレエから少し外れてカンパニーを作るようになり、その中で少しずつ、「コンテンポラリー」という言葉が街角で聞かれるようになったり、スタジオにチラシが貼られたりするようになったりしてきました。私はその時、コンテンポラリーダンスとは何だろうと思ってはいましたが、まだ直接的に縁はありませんでした。

1990年に日本に戻ってきたときにようやく、お世話になっているJCDN(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)を通じて、コンテンポラリーダンサーとも交流ができてきました。彼ら/彼女たちの踊りを見ていて、あの時のピナたちを思い出し、一般にいうダンスよりもずっと自由で型のない表現ができるものがコンテンポラリーダンスではないかと考えるようになりました。そしてそれは私がやろうとしていたことではないかと気づいたんです。

そういう経緯なので、私は自分の活動を後になってコンテンポラリーダンスだと思うようになり、ご質問には私なりの言葉で答えることになります。今の私にとってコンテンポラリーダンスとは、「自分が今、何ができるか」を考えたときに生まれてくるダンスではないかと思っています。そのことは、私の活動を知っていただければ伝わるのではないかと思います。

――ありがとうございます。モダンダンスやジャズダンスが火をつけた黄金時代、マニシアさんも当初はそうした踊りに影響を受けていたというのは、何と言いますか、歴史を感じました。では、もう少し詳しく、今のご自身の活動につながる経験を順にお聞かせいただけますか。

私の母親は日本舞踊を嗜んでいたので、その母を見ていた小さい頃の私にとって踊りといえば、まず日本のものでした。ところが5歳のある日、母のお稽古でたまたま師匠さんがおらず、代わりにバレエの発表会を観に行く機会があったのですが、子どもの私はとても刺激を受けました。その後、母親に「着物を着て踊るのと、ドレスを着て踊るのと、どっちがいい?」と聞かれ、私は「ドレス!」と即答しました。そこから人生が流れていったように思います。

田舎に住んでいたので、バレエを習うことができる教室は一つしかありませんでした。その先生は、のちに校長先生を務めるような教育者で、戦後、女の子たちが身体を売るような職業に就かないよう教育するために、という考えからバレエ教室を始められた方です。そして、これは大人になってから気づいたことですが、その先生が教えていたバレエは実は創作に近いものでした。例えば突然お題を与えられて「ポーズをつくれ」と言われて、私たちがタンバリンを鳴らしてバタバタと飛んで回っているようなダンスだったのを覚えています。思い返せばその頃から、自分で表現する方法を教えてもらっていました。

その先生のことを尊敬してはいましたが、私も若かったので、ビシビシと指導されるダンススタジオにも憧れていました。また、どこまで行っても自分の暮らす地域は狭い世界だと肌で感じてもいて、ちょうど当時はジャズダンスのブームが来ていたこともあり、私はニューヨークに行くしかない!と思い立ちます。

ニューヨークではモダンダンスのカンパニーで様々な経験をさせてもらいました。やりたかった華やかなダンスにもたくさん触れてきましたが、そんなある日、私は現地で結婚して、妊娠をしました。その時に、それでも何とかダンスで表現を続けたいと思い参加したマタニティダンスが、私にとってダンス人生の転機になりました。いつもなら即興ダンスでも全員がセンターを奪い合うので動きが激しくなるのですが、マタニティダンスの場合は当然、みんな妊婦なのでお互いをいたわり合います。その中で生まれるダンスが非常に不思議で面白いなと思いました。

実際みんな、すごい大きなおなかなのですが、彼女たちはそれを「美」だと捉えていました。ある公演では会期中にバスタブで出産した人もいました。ダンスの中でおなかを上にすると中の赤ちゃんが踊っているという様子に、私は非常に魅力を感じました。今までのダンスと違う何かがここにある、そんな感じがしました。私が日本に帰ってきたのは、このような経験をしたすぐ後のことでした。

ダンスとはこれだ、とパンチを食らったような気持ち

日本に帰ってきてしばらくして、縁があり障害者と踊るワークショップに参加することになりました。それは、妊婦たちのクラスとはまた空気が全く違っていました。そのワークショップでは、発表のときになるとグループに分かれて、障害のある人とない人、ダンスの経験がある人とない人が混ざるようになっていました。その中の、障害があって車いすに乗っている方が、指先だけで素晴らしいダンスをしているのがふと目に留まったのです。自分が全く出会ったことのなかったようなその踊りを見て、あまりの新鮮さに見とれました。ダンスとはこれだ、というパンチを食らったような気持ちでした。

私はその彼と踊りたいと思い、ダンスで四つの曲を使おうと思って、「私は三つ選ぶから、一つ好きな曲を持ってきて」と伝えました。すると、彼が持ってきたのは、私が踊ったことのないようなハードロック。でもお客さんもいるし、踊らないといけない。そして車いすの方とアーティスティックに踊るにはどうすればいいか。瞬間瞬間で集中するしかない。こうした感覚こそが本物のダンスだと思えました。私は今までずっと振り付けの仕事を通していろんな踊りを観てきましたが、彼は座ったまま、車いすから落ちるのではないかというほどの表現をする。そんなの見たこともないし、かといって、こちらも負けられないという気持ちにもなる。彼とのダンスからは本当に元気をもらい、そこから、障害者へのフォーカスが生まれました。

瞬間瞬間で自分の表現をする――。思えば、私の基礎にはこうしたことへの関心がずっとあったのだと思います。そしてそのことを、活動を通して次第に理解してきたのが今の私です。私は内気な子どもでしたが、身体表現はたくさんしてきました。その自分が認められることより、自分の声を発することに生きがいを持つようになりました。

私にとってダンスとは、社会と関わるツールでもあります。今、私が一番したいことは、コロナ禍での貧困や、子どもの虐待について、自分自身の表現で表すことです。それはかつてマタニティダンスで経験したような、「命をテーマとした踊り」です。観る側も参加する側も、「今日、生きていてよかった」「今日のこの時間は、本当に楽しかった」と感じられるようなものを作りたい。そしてそれを、いろいろな場所で行いたいと思っています。ダンスを通じて仲間が増えることで人が笑顔になったり、恥ずかしがっていた子が発表の場ではスターのようになれたりと、「自分も生きていてよかった」「ダンスがあってよかった」と思うところにつながる活動でありたい。それが今の私の仕事です。

――冒頭の「コンテンポラリーダンスとは何か」という問いにつながるようなご経験を聞かせていただきました。今この瞬間、切実に浮かび上がってくるものを取り上げ、表現する、それが「コンテンポラリー」なダンスなんだと思いながらお聞きしました。また、マニシアさん自身が実際にいろいろな場所に行き、そこでの出会いや、衝撃を受けたことが、次につながってきたのだと知り、とても興味深かったです。

その中で、「命をテーマとした踊り」という表現が印象に残りました。ダンスが社会と関わるツールになる、という点について、もう少し詳しくお聞きできますでしょうか。

さきほども少し触れましたが、最近では虐待の問題に対して、踊りをツールとして何かできないかと考えています。実際、少し前に、虐待を受けたある当事者の方々とダンスをする 機会を持つことができました。参加者と触れ合っていると、もしかすると私も半分くらい当 事者なのではないかと思うような切実さを感じる瞬間がありました。そのダンスの中で、参 加者のおそらく一番求めているであろう動きを取り入れたところ、しだいにみんなが踊りながら心を開いてくれて、セルフセラピーのような状態になりました。この心が開かれた状 態でこそお互いに話せることがあると私は思っています。

虐待当事者支援のためのフォーラムを、このパフォーマンス・アンド・ディスカッションの形式で開催し、自分のソロパフォーマンスを観てもらった後で参加者たちとのディスカッションをする際に全員にマイクを渡し、一言ずつ、今感じていることや思っていることを聞くという方法をとってみました。すると、その日のパフォーマンスに興味があってその場にこっそり来ていた参加者がマイクを取り、「自分は発言するつもりはなかったのだけれども…」といって自分の話を打ち明けてくれたのです。もしそこにダンスがなかったら、ただみんなが集まって、堅苦しい体で話していただけで、そんなことは起こらなかったと思います。こういう場がこれからも増えてほしいと思います。

【後編】に続く

2021年9月11日 フェニーチェ堺大ホールホワイエにて

インタビュー/テクスト:堺市文化振興財団
常盤成紀・今野はるか・恒川芳美


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