黄金の愛

あの日、息をするのも困難なほど高密度な暗闇の中にいた僕に、あの二人は優しく、それでいて力強く、手を差し伸べてくれた。

学校帰り、いつものように図書館に寄った。本が好きだったというのもあるが、思いつく限りの時間を潰す手段を実行してからでないと、僕の体も心もあの家に向かおうとはしなかった。
ぶらぶらと本を物色していると、色使いが印象的なひまわりの絵が背表紙にあしらわれた分厚い本が目にとまった。
美術史に残る重要な絵画をまとめた画集だった。
手に取りその場でパラパラとページをめくる。
不気味な大男が子供のような物体を食べている絵、一糸纏わぬ滑らかな背中を見せながら、顔だけこちらに向け蠱惑的な視線を送る女性の絵、僕の好きなバンドのアルバムのジャケットになっている絵もあった。横暴な権力者たちから自由を勝ち取ろうとした、美しい絵だった。
どれも魅力的で、僕は立っていることも忘れページをめくり続けた。
大きな一つだけの目で女性を眺める不気味な巨人の絵。しん、という音が聞こえてきそうな静寂と、それに調和するように奏でられる、どこか儚げなピアノの音が聞こえてくる絵。タバコと酒と喧騒の匂いが鼻をつく、あまり綺麗ではない女性が踊る絵。謎の鳥人間。
ひたすら、ページをめくり続けた。
あのページを開いた瞬間、周りの全ての音が消えた。
しばらく呼吸をすることも忘れていたような気がする。
そこには、あまりにも圧倒的で、暴力的で、絶対的な愛があった。
黄金の世界の中、一組の男女が、今まさにキスをしようとしている。
美しかった。
彼らは何人たりとも犯すことのできない世界を作り上げていた。
彼らの間には、怒りも、憎しみも、自己嫌悪も、悲しみも、喜びも、全てを包み込み圧倒する絶対的な愛が存在していた。
彼らこそ、この黄金の世界の支配者であり、正義だった。
僕は全身から力が抜けていくのを感じた。立っていることが困難になり、ページを見つめたまま席を探し座り込んだのを覚えている。
僕はゆっくりと、黄金色の二人をなでた。
官能的な紙の匂いが鼻をつく。指先が、黄金の中に溶けていく。視界がぼやける。
溶けていく。
僕が、全てが。
黄金に、溶けていく。

僕がずっと欲していた、一度も触れたことがないもの。
例えそれが刹那的なものでも、それは何事にも変え難い力を持ち、僕の世界をひっくり返してくれるだろう。
この世界には、こんなにも純粋で、圧倒的な愛がある。
あの絵は、そう僕に教えてくれた。

クリムトへ

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