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ラジオとデザイン

あの日

この放送している本日は3月11日、
2011年に東日本大震災が発生した日です。

13年前ですから、当時の仙台を知らない方も増えてきましたが、宮城に暮らす僕たちには大切な日であり、さまざまな想いが浮かび上がる日。

私はラジオが果たした役割はとても大きかったと感じており、この場ではデザインの視点からラジオのことを考えてみたいと思います。

聞こえていたのはラジオだけ

2011年の当時も僕は、このラジオ3のビルにいました。もちろん地震が起こるなど想像もしていないですから、何一つ心の準備がない状況。ビルが上下ひっくり返るような揺れでオフィスは一瞬にしてグチャグチャに。社員は解散。それぞれ自宅へ。

僕は車通勤でしたので、電車で帰るのが困難な仲間を乗せて送り届けながら自分の家を目指したわけですが、道は大渋滞で迂回もできず、空も暗くなっていくなか、じっと進まない車列でハンドルを握り続ける状況。

僕はそのとき、カーラジオしかなかった。
 
Twitterにアクセスすることはできましたが、情報も断片的で信ぴょう性もなく、見れば見るほど不安が高まるだけの状態。スマホのバッテリーも減り続けるだけ。映像にもアクセスできなかった。不安な顔で家路に急ぐ人たち。情報環境に恵まれた人など、どこを見てもいなかった。

Radio3、震災発生時の原稿

ヒトにとってのラジオ

僕はこの時、「ラジオ」というメデイアの力強さ、コミュニケーションとしての柔らかさ温かさについて深く考えさせられました。「人が人を支える装置」が「ラジオ」という存在。人に寄り添う「仲介するもの」としての視点で、もっとデザインにできることがあるのではないかと思うのです。
 
例えば、
コミュニケーションデザインの領域で捉えながら、建築家の菊竹清訓さんが提唱した3段階方法論「代謝建築論」に準えて考えてみる。分解することで、どんなキャラクターに設計すれば良いのか、輪郭が見えてきます。

 ・どのような共通感覚のものにするか、認識される「カタチ」を考える。佇まい。
 ・どんな枠組みで整えるのか、法則としての「カタ」を考える。はみ出さないためのルール。
 ・どんな想いを受け入れるのか、温度としての「カ」を考える。気合い。

もし聞き手側から考えれば、暮らしに入ってくる「音のテクスチャー」は大事になるし、逆に話し手側から考えれば、気合を放り込む「マシンのインターフェースに」は温度を左右するでしょう。デザインはプロセスの整理整頓が肝ですから、このようにフレームワークで言語化したり可視化したりデザインならではのアクションで「ヒトにとってのラジオ」へとブラッシュアップできる。
 
プロセスを意識していれば、ラジオ機器の造形に人格が現れすぎることはないはず。それでは聞き手の好みだけの一方通行のプロセスになる。可愛いだけの印象では話し手の届けたい温度とミスマッチになるシーンも出てくる。さまざまな人がさまざまな想いで声を出して、さまざまな人がさまざまな場で声を聞く。だから、機器は無機質で良い気がします。「音だけ」の断片的な状況に対して肉付けすべきではない。

この「やるべきこと」と「やらないこと」の取捨選択、整理整頓、これはまさにデザインの思考プロセスです。全部入りは満たしているようで、過ぎ去るだけのものになってしまう。ガラパゴスな携帯電話とiPhoneの違い。デザインは目的を叶えるために最適化する。作詞家・音楽プロデューサーの秋元康さんが「記憶に残る幕の内弁当はない」と言葉にしていることに共感できる。

Radio3 25thでは「定食」を訴求(2021)

あらためて意味を問う。ラジオというカタチを描く。

これからは自分たちにとって意味があるのか意味がないのか、この判断がより一層問われる「価値観の時代」になる。限られた資源のなかで負荷なく豊かに暮らすため、あるいは何をヒトが扱い、何をマシンに任せるのか、 これはとっても重要なイシューとなる。ですから「人が人を支える装置」のミニマムな姿が「ラジオ」であると思いますし、必要以上に詰め込んだラジオでは大事な時に伝わらないし、絞り込んだ言葉であるからこそ人の心に届いていくのだと思っています。
 
最近はラジオ機器を持っている人も少なくなりました。

暮らしの中に「ラジオ」はどのような存在で佇んでいるのか。歌や映像を楽しむこととは違う「ラジオ」ならではのカタチが、モノとしてコトとして、どのような形を纏うかは無限に広くなりましたが、顔が見えるような距離感、体温、匂いまでも感じられるような「人の気配」がデザインされると良いなと思っています。

みなさんの描く「ラジオの姿」とはどんな絵になるでしょう?

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