死にたいくらい

2020年5月22日、ネパールの首都カトマンズにて僕たちの終わりは来た。

2019年の7月15日にネパールに着き、居抜き物件を1年契約した。

クラウドファンディングで199人の支援者から163万円の支援を受け海外で起業した。

高校時代の友人とネパール人の従業員3人で店を始めた。

(高校時代の友人は父がネパール人、母が日本人のハーフだ)

メニュー作りから価格設定、店の内装から全ての配置も自分たちで作った。

水は井戸水式で自分たちの手で出さなくてはいけないし、街中は汚いのですぐに砂埃で店が汚くなる。日本人がやっている居酒屋、綺麗さには気を遣いながら清掃を怠らず、覚えたてのネパール語と英語でなんとか毎月赤字を出すことなく経営をしていた。

何人かの常連さんもでき、褒めてもらう機会も増え、また新しい従業員を迎え、順調に経営はできていたように見えた。

しかし、3月23日からネパールはロックダウン(都市閉鎖)で休業することを余儀なくされた。

5月になり、契約更新の話がオーナー、出資者、僕たちで行われた。

オーナーは共同経営者の母親の高校時代の親友、出資者は僕たちと同い年の男の子だった。

僕たちが来る前の店の状況はグランドオープンもしておらず、毎日売上がゼロということもザラにあった。毎月の売上は1万から3万の間。

そこから僕たちは20万から30万の売上に毎月のせていた。

従業員にもネパールの平均月収の倍を渡していたし、プライベートで家族と仲良くしたり関係も風通しも最高だった。

僕は毎日ホテルや飲食店を回り、ビラ配り、ネパールの有名な店に足を運び、1人でも多くの人が来てくれるよう営業していた。

僕の相方もメニュー作成や経費計算、様々な裏方の仕事を全て1人でこなしていた。

その甲斐あってか、売上は割と安定していた。

また僕たちに任せてくれるだろうとタカをくくっていたのが悪かったのか。

この世界的な騒動の中で、なんとも法外な契約金を提示された。

それが結べないならいますぐ出ていけと。

そりゃオーナーも出資者も苦しいのはわかる。

僕たちも相当辛かった。売上が上がらない状態で、ロックダウンは2ヶ月間も続いた。

なんとか耐え忍んでいた。きっと暗闇の先には光が待っていると。

この店は僕たちが来てから、ネパールにくるバックパッカーの間では有名になっていた。

わざわざ僕たちの店に来るためにインドからネパールに寄ってくれた観光客の人もいた。

大学生の情報交換の場所にも使われていたり、実際ネパールでの支援活動を並行してやっていた僕たちは大学生からインタビューを受けることもあった。

自信があった。自分にも。パートナーの相方の力にも。

俺たち2人ならできる。その自信が確信へと変わっていっていた。

その中でのいきなりの契約解除宣告。

正直、店が終わり早々と片付けをして日本に帰ってくるまでの記憶があまりない。

誰がどこから見ても僕たち2人でやった方が、孤児院の子どもたちの生活も支えれるし、来てくれる観光客の人も、大学生も、オーナーから見ても絶対いい。

出る杭になっていたか?と問われるとそうかもしれない。

あまり知られていないが、ネパールには非公式に日本人会というものがあり、そこに現地の日本人は集うのだ。

「なんで海外に来てまで日本人で戯れんのじゃ」と思っていた僕はあまり仲良くすることはなかった。といっても中にはいい人しかおらず僕も本当に人間として尊敬する人もいた。

経営をするというのは売上をあげて、従業員とその家族の生活を守るだけではダメなんだとこの身をもって感じた。

ただこの世の正解を出すだけではダメ。人間が絡んでいる以上はいつでもあらゆる事態に対応できる余力がないといけない。

確かに、がむしゃらにやってきた僕たちに一切の余力はなかった。

はたから見たら「無力な若者2人が勢いだけで店を盛り上げている」としか映らなかったのかもしれない。

僕たちの足元をすくうことはあまりにも簡単だったのかもしれない。

でも僕は本当に人生をかけていた。

小学生時代から毎日母親は先生に呼び出されていた。

父親は日本を代表する会社の関西支店の支店長だったが、何度か学校に来ていたのは幼いながらに覚えている。

その親が今までで一番喜んでくれた野村證券への入社、20代で年収1000万の資格を持っていたのにも関わらず、僕は2年で辞めた。

サラリーマンで生きていけると確信があったから。しっかりと結果も残したし、色んな経営者や優秀な上司、同期にも出会えた。

その中で高校時代の親友と海外起業した。

きっと最初から何も上手くいかなかったらもっと納得できていたと思う。

確実に僕たちは僕たちにしか出せない結果を残していた。

証券時代の上司の言葉を思い出す。

「この世は資本主義だからお金を持ってる人に俺らは頭を下げるんだ」と。

その言葉の意味は1年と少し後に僕の身に、見事に突き刺さった。

「お金が全てじゃない」

いや。それは合っているけど間違っている。

僕たちはその「お金」に殺されたんだから。

確実にあの日、僕たちはお金に殺された。

誰が死のうとも日常は続いてく。

この無情で儚い世界で若者2人の挑戦はあっけない形で終わりを迎えた。

実際、日本に帰ってきた今もあまり物事が考えられない。

ステークホルダーに人が多すぎるのは良くないとか、出資関係に僕たちも参画するべきだったとかいう経営コンサル的なことに耳を貸す力は今の僕にはない。


何もかも失った。

こんなに失うことが怖いと思わなかった。

25歳、無職。

成功するまでの努力は長く険しい。

失敗までの道は子どもが滑る滑り台より短くはやい。

日本に帰ってきた初日。

テラスハウスに出ていた人が亡くなったらしい。

ツイッターはその話題でひっきり無しだ。

きっと「自殺なんて弱いヤツのすることだ」「自殺する勇気があるなら頑張れよ」

と思ってる人もいると思う。

僕もかなりそう思う人間だ。立ち向かうことで人間は道を拓く。

でも今は少し違う。

昨日、日本で眠る夜はそんなことも可能にさせてしまう気持ちになった。

僕を圧倒するような大きなビルたちに、最先端を身に纏う若者たち、自粛が終わるに近づき、ネットワークビジネスで稼いでいる人間が主戦場のカフェに戻ってくる。

あのタワーマンションから飛び降りる勇気はどれくらいいるんだろう?

勇気は持ってる方だからできるのかもな・・

この世のビジネスチャンスが全て取られたと錯覚するくらいに東京は何もかもがある。

人1人を殺すのなんて簡単だと言わんばかりに。

また今日も世界は回っていく。

有名人たちが騒いでいる今の状況も、この文章をみんなが見ている頃には収まっているだろう。

 人間なんてそんなものだ。

足りてることに感動はしないのに、足りないことは立派に嘆く。

そんな傲慢な奴らが1人死のうと地球は知ったこっちゃないと回り続ける。

陽が落ちて、また昇る。

スタバの前で、微妙な距離感で座って話している男女の関係は潔白なのか。

その裏に「1人目の彼女の涙」があるのかもしれない。

東京はなんでもある。人の心も一緒だ。

「愛してるよ」と出ていく彼氏が向かう先はみんなが想像できる数だけ実際にある。

「頭の中で考えられることは全て実現可能」というのは本当なのかもしれない。

僕が失敗しようとも死との距離が近づこうともこの世は変わらない。

でも変わることは1つだけあるんじゃないかなと思っている。

僕は胸に手を当てた。

それは、オレ自身だ。


必ず舞い戻ってみせる。

俺には俺がついている。



公式発表はこちらの「活動報告」からご覧いただけます。応援して下さったみなさん、本当に申し訳ありませんでした。そして本当にありがとうございました。






この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
土岐誠(株)ラストパートナー

もし1億円稼げるようになったらコンビニで100円のおにぎりじゃなくて200円のおにぎりが買いたい

ボクもすきです
147
野村證券→ネパールで海外起業→事業撤退→都内で社内ベンチャー新規事業→(株)ラストパートナー/26歳挑戦者。教科書に名前を残すことが夢です。