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春雨橋で映画を囲む風景をもう一度。「松戸輝竜会館」の元スタッフ、山口久夫さんが語ってくれたこと 【ながれを見つめる、ながれをつくる—坂川ながるるインタビューシリーズ】

最近、映画館で映画を観ましたか?
個性的な映画館やミニシアターの流行、「シネコン」と呼ばれる大型映画館の隆盛、そして近年のオンラインでの視聴サービスの盛り上がり。
ここ数十年を振り返ってみても、映画をめぐる文化は大きく変わりつつあります。

春雨橋親水広場の向かいには、かつて「松戸輝竜会館(以降 輝竜会館)」という映画館がありました。
1959年に開業後、およそ40年にわたり子どもから大人まで親しまれるも、建物の老朽化と時代の流れに抗えず、2000年に惜しまれながら閉館。現在は、当時の姿を知る人それぞれの記憶の中で生きる文化施設です。

10月26日に予定している屋外映画祭「坂川ながるるシネマ」は輝竜会館の存在に着想を得て、開催を決定。その準備をしていると.....
輝竜会館で20年以上働いた経験をもつ、松戸公産の山口久夫さんに出会うことができました。

番組編成担当として、輝竜会館の賑わいを作り出し、見つめてきた超本人である山口さんに、かつて松戸にあった映画をめぐる風景について、熱いお話を伺いました。


北松戸駅から数分歩くと辿り着く松戸競輪場。その警備室から山口さんは出迎えてくれました。
警備服姿の山口さんは、現在、競輪場の警備業務を担当しています。「場内に緊急事態があれば、すぐに行かなきゃいけないけれど」と前置きのもと、快くこちらの質問に応えてくれました。

賑わいをつくるため、みんなで頭を悩ませながら

山口さんが輝竜会館に着任して間もない頃、施設としては最盛期を迎えていました。
当時、松戸駅周辺には3つの映画館がありました。1920年代開業の松戸常盤館、戦後に建てられた輝竜会館、そして開業したばかりの松戸サンリオ劇場。休日の劇場内はそれぞれの観客でひしめき合っていたそうです。

「『スニーカーぶる〜す(※80年代のアイドルが出演した作品)』を上映したときは異常でしたね。公開初日に出勤すると、小中学生の女子が押しかけ、道路にはみ出し事故が起きかねない状況になっていました。翌週からはスタッフは朝5時起きで内外を整備。1日何回も上映し立ち見も含めて限界までお客さんを入れて回していました。」

これ以降、ドラえもんやジブリ作品などが公開される度に、劇場は子どもでいっぱいになるように。『ターミネーター』シリーズ、『タイタニック』などの大人向け映画も、公開すればすぐに行列になったそうです。

開館当時から1987年までの様子
1987年、「シネマ3」開館後の様子。取材陣からは「懐かしい!」の声も

連日大入りに見える一方で、当時の郊外のローカル劇場と配給会社の取り決めは厳しいものでした。

輝竜会館は元々、『輝竜会館大映劇場』として開業。2ヶ月後に設けた『松戸バンビ劇場』と、1987年に開館した新館を統合し、それぞれ『松戸輝竜会館 シネマ1、2、3』となりました。スクリーン数を増やさなければ、作品を回せず売上が立たないことが理由でした。

邦画は封切り館(※新作映画をすぐに公開できる劇場)として運用できたものの、映画制作・配給の会社の大映、東宝、松竹の作品限定という制限つき。洋画は1982年まで”二番館”として都内からは2、3ヶ月遅れで公開するというルールがありました。

10週連続上映を約束される長期契約なども飲まねばならない状況も。その制約のなかで運営を行うのは、ローカル劇場には苦しいものだったといいます。

「みんなで頭を悩ませながら、売上を作り続けていくのは大変でした。『エイリアン』は公開したばかりで売上は取れたけど、 『チャンプ』、『グリース』は公開から時間が経っているので2本立て(※同じチケットで両方鑑賞ができる)にすればなんとかお客さんが入る。

話題性の強い映画の時は1本立てで1日5回で回せますが、2本立ては1日3回しかできない。 最後の方が良い映画だとお客さんが入りやすいから、『チャンプ』の主演のジョン・ヴォイトよりも、ジョン・トラヴォルタとオリビア・ニュートン・ジョンのダブルヘッダー主演の『グリース』を後にしてみる。そういった工夫をしていました。 」

業務を離れた今でも、すらすらと俳優の名前が出てくる山口さん

子どもも大人も楽しめる「文化」を、松戸に

劇場編成を考えるにあたり山口さんが大事にしていたことは、「健全な環境であること」。
入社前後には、経営効率の良い成人作品も取り入れていて、子どもは近寄り難い雰囲気があったといいます。1980年代以降はその方針を変更し、「子どもにも大人にも愛される映画館」として番組編成をした結果、徐々にファミリーで利用される劇場へと変容しました。

「当初の作品のラインナップも、やっぱり近所の人は知ってるわけですよ。良質な映画でも15歳、18歳以上の作品はもちろんありますけど、ガラッと方針を変えて、洋画の上映開始とともに健全なものに特化していくと、親も安心してお子さんを連れて来てくれるようになりました。」

地元へ根付く意思のあった輝竜会館は、そもそもどんな理由から開業したのでしょうか。

千葉県に奉仕するという社史の記載も

「会社として何か地域社会に少しでも貢献しようという趣旨で建てられたと聞いています。弊社は競輪場運営がメインの事業ですが、戦後娯楽が少ない頃のギャンブルっていうのはやっぱりみんなの遊びの中心で、売り上げがすごかったらしいんです。

その一方、子どもや家族の遊び場がないという声を耳にしたようです。競輪場として収益の一部を還元するだけでなく、より文化的な視点で地域社会に貢献すべきだと思い至ったと聞いています。」

住民や株主にも、どんな場所があったら良いかアンケートをとったというような話も。そこで決定したのが、映画館の創立でした。
映画文化が栄えている都内まで出向かなればならないところを地元でも楽しめるようになれば、地域社会に役立つ交流地点になると、1959年の開館に至ります。

時代のながれには、抗えなかった

80年代の最盛期を経て、1990年代前半、シネマコンプレックスの台頭や文化の熟成とともに、ローカル映画館の経営のかげりが顕著に。ネット環境のなかった当時、松戸内の新聞への広告や施設への割引券配布など、手をつくしてもローカル映画館はシネコンの勢力には抗えませんでした。

「売り上げがだいぶ頭打ちになって、動員数も明らかに落ちて。これまでも何度か存続の問題に向き合ってきましたが、もう流石に立て替えようかと。私としては残してほしかったけれど、経営的判断と、時代の流れはどうしようないですよね。」

その時すでに山口さんは本社に異動していたものの、輝竜会館を常に気にかけていたそうです。

閉館1年前の1999年、最後の企画として創立50周年記念映画祭を実施。

「最後の最後と思って、『風と共に去りぬ』や『アラビアのロレンス』とか、映画会社にある古い名作を出してもらって、名作映画企画を実施したんです。でもやっぱり反響は厳しかった。

新作の映画であれば社会的に注目がいくところを、自主企画の自腹宣伝っていうのはやっぱり難しい。地元の松戸市内だけでやってくのは限界で。潮時だったと思います。」

松戸の3つの映画館は、設立した順番に閉館していきました。

大事な資料を取り出して見せてくれました。それは、跡地に建った『パークホームズ松戸シティフロント』最初のチラシ。「なんだか気になって」と当時から山口さんが所持していたものだそう。

「このチラシをたまたま私見つけて、記念にとっておいたんです。今、いいマンションになっていますよね。」

山口さんは、ドライブインシアターの設立を提案したことがあったものの、実現には及ばなかったそうです。

山口さんの、輝竜会館の思い出

忘れられない光景について、山口さんに尋ねてみました。

「近隣に迷惑をかけないようにしなきゃいけないので、担当部署として閉館から建て壊しまで毎日立ち会っていましたが、綺麗になくなった時は、なんかこう……寂しかったですよね。育ててもらった場所だったから。

でもそれ以上に、初めて輝竜会館に来た日の方が鮮明に覚えています。田舎から出てきて、初めての劇場、大きなスクリーン。そこで最初に見たのは『未知との遭遇』って作品なんですが、最初にバーンとすごい音がするんですよ。輝竜会館にはドルビーステレオ方式を導入していたので、初めてその音を聞いた時に、映画館ってすごい、楽しい! って。

最後の方はね、もうこの辺の建物は見飽きちゃいましたけど。」

「子どもの笑顔はやっぱり嬉しかった。ドラえもんだったり、ガンダムだったり、こういったものは子どもで溢れるんですね。

みんな1000円を握りしめてチケットを、そのお釣りでお菓子を買って。手ぶらでは帰りたくない子は、何かお土産にパンフレットを買ったりして。1冊400円ぐらいのパンフレットが、上映期間中に何千冊も売れるんです。プレゼントがもらえる作品の時はみんな嬉しそうでした。そして帰りはサーッといなくなる。

もう2度とないでしょうね、ああいう光景は。」

山口さんの思い出が、徐々に溢れてきます。
翻訳家や映画評論家に混ざって、映画作品の試写会をくまなく廻ったこと。編成担当になっても変わらず現場に立ち続け、もぎりや売店のポップコーンやポテトを販売したこと。紙コップの自動販売機になるまで、瓶のコーラの販売と回収が地味に大変だったこと。

みんなで楽しむ。それぞれの思い出になる。

上映会を行うにあたって、アドバイスをお願いしました。

「ちょっと真面目なくらいの作品を選ぶと良いと思います。健全っていうのは、できるだけ多くの人の”嫌い”がなさそうなものを選ぶということも含んでいます。

作品を選定していた立場の私にとっては、お客さんが入らない映画はあんまり印象に残らなくて。印象に残るのはやっぱりたくさんのお客さんが喜んでくれた映画です。その光景を1番にイメージして作品を選んでいました。」

わざわざ映画館に出向かずとも、食事中に自宅で、移動中にスマホで、映画は手軽に楽しむことができるようになりました。
でもだからこそ、わざわざみんなで同じ場所に集まり、同じ映画を囲むことが、長く残る「思い出の風景」をつくることに他ならないのかもしれません。
今は穏やかな時間が流れる春雨橋エリア。多くの人が集い、あらゆる体験を思い出にして、自らの生活に戻っていく——山口さんのお話を聞いていると、かつてここでは、そんな「ながれ」が確かに生まれていたことが想像できました。

(執筆:塚崎りさ子、編集:小林舞衣、写真:鈴木ヨシアキ、協力:松戸公産)

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