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第7章 未来

現在でない時間に実存することはできない。それ故に現在でない時間を用いて事象を語るとき、存在に関する何らかの要素が捨象(破壊)される。
そしてその破壊の対象は、私たちがそれを想起という形で現象するとき、私たちによって恣意的に選択することができる。
なぜなら、時間による破壊「そのもの」という世界における確定的な事象は存在しないためである。これは私たちの(現象学的な)現象の話であり、そこで重要なのは外界における事実ではなく、私たちがそれを真理と認める形で現象するか否かという点だからである。
第1章において述べた通り、過去の思い出の想起という場において、私たちはその真偽を外界と切り離して自ら選択することができる。少なくとも、その選択可能性が真であるという意味の場を構築して、そこに想起を現象させることができる。
すると過去の想起という時間的バッファにおいて、私の実存にあらゆる形を認めることができる(登阪(2018)は、不死主義における無限時間の未来というバッファを用いて「無限通りの自分で無限通りの世界を楽しむ」という表現をしたが、それを過去の想起という形で実現することができる。)
この確信のもとに実存を未来に投企するということは、未来において過去となった現在を、その「現象のしかた」においてはあらゆる形でコントロールできるということにつながる。
到達不可能な他者へ到達しようという営みは常にアポリアを抱える。なぜなら定義に不可能性が含まれているためである。だが、不可能でありながら我々の生はアポリアを前に停止していない。これは実際に、私たちが無意識のうちにこのアポリアを未来における過去となった現在の想起という形で解消しているためである(多くの場合、不可能性から逃避した上で、「あのときあの困難から逃れたことでより良い今がある」という形式を取るように思われる。)
仮に、この方法を知った上で現在を生きれば、未来において想起される現在を緻密に設計し、発展的に不可能性を乗り越えることが可能であるかもしれない。このうえで強固な武器となるのが、因果律の破れである。現在を未来から遡ることは、時間の一方向性を破壊するため、因果律を無視した語りを行うことが可能である。未来において現在を想起する際、ある一連の因果関係に基づくストーリーを描くであろうという思惑のもと、現在においては全く異なる欲求からの帰結として行為することが許される。さらに、そのような因果の向きの乱れたストーリーを複線的に走らせることも可能である。
その因果関係の束が、現在が想起として現象する際に付随する意味を、単線の場合とは質的に異なるレベルで豊かにする。このように時間の破壊力を操作すれば、目前にある不可能性を、未来での想起において超えられる(=無限遠への投企を恣意的に達成できる)かもしれない。

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