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第3章 到達不可能なものへの投企

・私とは恣意的なもの、とはどういうことか
私とそれ以外を区別しないことができます。梵我一如、あるいは汎神論など。私という視点にたまたま立っているために忘れがちですが、客観的な視点で世界について考えれば、私とそれ以外を区別するものは特にありません。「私目線だから私」というトートロジー以上のことを日常的な文脈では語れません。私を特別な存在とするには、なんらかの特別な概念を導入する必要があります。その代表的なものが死であり、そこからハイデガーの実存主義の話に至ります。

・ハイデガーの実存
ハイデガーにとって私たちは世界に内属する存在です。現在という時点において、過去の総体として。そして、いずれ訪れる不可避な死という「私」の終わりの対極として、常に死へと目を向け、今を生きることになります。不可能なものへ自らを抛つ姿勢を投企と呼びます。(かなり雑な表現ですが本筋においては投企という概念の提示ができれば良いのでこの程度に留めます。)

・到達不可能な他者
他者について特によく語ったのはレヴィナスです。レヴィナスの語る他者とは日常的な意味にとどまらず、自我では絶対に到達しない存在を指します。このような他者の存在が、あるいは時に自我を世界に対して開かせ、また全く異なる私へと到達させてくれます。
このような他者の到達不可能性をあらゆる事物に拡張したのがハーマンのオブジェクト指向存在論です。ハーマンは万物に感覚を認め、その上で相互に到達不可能であると同時に感覚において相互を魅惑する代替因果の働きを主張しました。ハーマンの問題意識はこの、事物の到達不可能性の厳密な運用にあります。
バタイユもまた私と世界の絶対的な断絶を語りました。バタイユは私という主体が死と生の狭間にあるような状態、生命は存続しているが主体は死んでいるような状態において、私は世界との断絶を超えて連続性を獲得できると主張しました。そして連続性の獲得こそが生命の最も希求するところであると。そのような内的体験こそが至高、すなわち神(ただし唯一神ではない)だと。

・他者への投企
生きる意味とはすなわち到達不可能なものへの投企だとするのが、「新しい実在論」のマルクス・ガブリエルです。ガブリエルは宗教の意義として、それが無限という不可能なるものに究極まで近づき、そこから自らのスケールへと戻ることで、それまでとは異なる自分になれる点だと述べました。ガブリエルの論じる「意味の場」とそこに現象するあらゆる実在という世界観において、個々人の生きる意味とは、この「意味の場」を渡り歩いていくことだと彼は主張します。ある意味の場に留まるということはこの世界において意味を生まない、すなわち無だと登阪は解釈しています。
意味の場を渡り歩くことは想像以上に困難で、それは既存の私という実在を破壊することでもあります。そのような主体の崩壊はまさにバタイユが述べたことでしょう。バタイユは主体を崩壊させるようなものを「聖なるもの」と呼びます(デュルケームが社会学において用いた言葉を彼は引用しています。)すなわち無限遠の存在(例えば神)と私を引き合わせてくれるものです。僕にとっての聖なるものは本章で挙げた旅、恋愛、芸術、学問ということになります。

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