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そうやって今日もなんとか生きている:雨宮まみ『まじめに生きるって損ですか?』

「まじめに生きるって損ですか?」

このタイトルを見て、そう誰かに聞きたくなったことのある人は結構いるんじゃないか、と思った。答えてくれる人がいるかは別として、少なくとも私はそうだ。そしてその度に、出来ることなら「否!まじめで結構!そのままでよし!」と全力で肯定してくれないかな、と割と強めに願ったりしていた。

自分なりに与えられた環境の中で精一杯やっているつもりでも、この世はそんなに甘くない。努力は実るものばかりではないし、生まれた時点である程度の経済力が決まっていたりする。どちらかといえば貧乏サイドで育った私としては、自力ではどうにもしがたい「親の経済力」がダイレクトに影響される子供社会をどうやって生き延びたのか、今だに不思議で仕方ない。

一部の人を除いて、私たちは生まれた瞬間に「限界がある」ことに直面しているのだから、あとは精一杯、それこそ「まじめに」生きていくより他にないのだ。それなのに、「もっとがんばれ」という励ましの圧や、一方的な「それができたら困ってねえ」的なアドバイスがあふれすぎている。それらを丁寧に受け止めて、一生懸命がんばって、可能な限りの期待に応えようとして、ふと気がつくとボロボロになっている自分に気付く。そして、思わずポロリと弱音を吐いてしまう。すると「もっと大変な人もいるんだよ」「私だってつらいのに」というかなり攻撃力の高い即レスが来たりする。

…なんだか書いていてだんだん絶望的な気持ちになってきたので、とりあえず、ここで一度、本書の中で刺さった言葉をちょっと引用したい。

私は、生きることよりも正しいことなんてこの世にないと思っています。私は自死も、自死を思う弱さも否定しませんが、生きているということが、もっともタフで強いことだと思います。(152頁、「ナルシストで武士道な女」)

これは読者の悩みや愚痴やモヤモヤに著者が答える形式の本だが、もうこの部分だけでも著者の優しさが溢れていると思う。「生きることが強いこと」とは言いつつも、自死や「死にたい」と思う気持ちは否定しない。それはつまり、他人の選択や生き方を否定しない、ということでもある。この優しさ、というか懐の深さが、壊滅しかけた心のキューティクルに猛スピードで染み込んでくる。

おおげさなようですが、生きることに希望があるとしたら、私はそこにしかないと思うんですよね。自分を理解し、愛してくれる人がいて、自分が愛する人がいること。大きな愛情でなくても、小さな思いやりや、長く続く友情でもいい。それがどんなに大きな支えになってくれることか。(中略)死ぬ気なんかなくなるほど、絶望を希望で埋め尽くすほど楽しく過ごしてください。自分を打ちのめす言葉に負けて死ぬなんて、そんな悔しい死に方をしちゃダメですよ。(192頁、「母にとって私は恥ずかしい娘」)

伝わるだろうか、この優しさが。死を思うほど抱え込んでいる相談者に対してただ「死ぬな」と言うのではなく、生きることの具体的な希望を伝えて、絶望を忘れるほどの希望に包まれて生きることを願っているのだ。優しく寄り添ってくれているのに強い。使い古された言葉で励ますのではなく、相談者の文章を反芻し、共感し、一緒に怒ったり泣いたりしながら、最後に「これはいかがでしょうか?」と、ちょっとした提案をしてくれる。

web連載時のタイトルは「穴の底でお待ちしています」。穴の底に小さなスペースがあって、カウンターがある、というイメージだそうだ。そしてそこを訪れた人に著者が飲み物を出して…という感じで始まるのだが、その飲み物がまたいい。文字情報でしかないのにすごくいい。おいしい蜂蜜を入れたホットミルク。丁寧に淹れた紅茶。チェリーののったクリームソーダ。煎茶とすみれの花の砂糖漬け。疲れているときや追い詰められている時って、誰かが作ってくれた美味しい飲み物が本当に沁みる。相談者に合いそうなものをセレクトしてくれるところもまた素敵だ。

故人について書かれたもので「この人が今生きていたらなんと言う(書く)だろう」という文章をみかけることがある(たとえばナンシー関とか)。私個人としては、考えても寂しくなるだけのことが多いのであまりこういうことは考えないけれど、この本を読んだときは思わず考えてしまった。「雨宮まみが生きていたら、今の世を見てなんと言っただろう」と。そしてこうも思った。「きっと変わらず優しいんだろうな」と。

この連載がやっていた頃よりも「愚痴封じ」に拍車がかかり、良し悪しにかかわらずあらゆるアドバイスがそこら中に転がっていて、「解決できない方に問題がある」とでも言わんばかりの社会だけど、きっとこの本の著者は、きっといつだって「それは大変でしたね」と言いながら、温かい飲み物をそっと置いてくれる。そんな気がしてならない。

疲れてコーヒーを飲んで休んでいる人がいたときに「コーヒーすら飲めない人もいるのに!」と責めるのではなく、「こっちの紅茶もおいしいよ」「いい緑茶もらったの」「お茶に合うお菓子もってきたよー!」「本気でレモネード作ったから飲んでみて」とか、みんなで美味しいものを出し合って、助けたり声を掛け合ったりして生きていける、そんな社会になったらいいな、と雨宮まみのいない世界でぼんやりと思いながら、私は今日も生きている。


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