誰かの世界を肯定するために生きているのではないということ
付き合いの浅い人と話していると、思いのほか「意外」と言われることが多くて驚いてしまう。年齢、性別、外見、職業、家族構成、血液型、趣味や好み。AだけどB。CなのにD。一体このやりとりはなんなのだろうと頭の片隅で考えながら、「意外だね~」なんて言われる度に「なんて答えたら斬新かな」などとふざけ心が疼きだす。
たぶん、いや本当のところは知らないけど、おそらく「そうかな~へへ」と軽く照れる感じで笑うのがいいんだろうな。「そうなの!私ってこんなに意外なの」と得意げになって「他にもこんなに意外な部分があってね」なんて盛り上がるのは求められてないし、「意外って、それどういう意味?」なんて前のめりに聞いてみたりしたらいけないんだろうな。でもちょっとやってみたいな。なんてことも考えてみたりするけれど、もういい大人なので、というかめんどくさいので、最近は「そうですかね」と真顔で答えて終わりにしている。とはいえ、30代になってからそういう「ちょっと失礼っぽい(少なくとも私にはそう聞こえる)」物言いが飛び交うようなカジュアルな人付き合いをやめたので、おかげさまで人間関係は極小だけど消耗することも減ったので気が楽だ。
話は変わるけれど、私は詩人とか歌人とか俳人とか、韻文(自由律もあるけどここでは韻文としますね)を書いている人のエッセイが好きで、見かけるとつい開いてしまう。限られた枠組みの中で言葉を紡いでいる人は、枠組みのない自由な紙の中で、世界をどんな風に切り取るのだろうと気になって仕方がない。なにげない日常生活を書いているはずなのに、なんでこんなに文字を追うのが楽しいのだろう、と読んでいるだけでワクワクする。日々の暮らしを綴ることで生計を立てられるなんて、その感受性と表現力にはもはや嫉妬すらなく、ただただ一読者として「すんごいな」と思う。
中学時代から雑誌に詩を投稿し始め、16歳で現代詩手帖賞を受賞。
高校3年時に発表した第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』(思潮社)で、中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少18歳で受賞。
詩人の文月悠光のプロフィールは輝かしい。正直、あまりの眩しさに目を焼かれそうだ。「中学時代から雑誌に詩を投稿」する行動力なんてないし、十代のうちにいくつも賞をとるなんてもう才能の塊だし、今も活躍しているし、はっきりいって「ハンパないわ」と思う。もう星が違う、前前前世くらいから違う、くらいに思っているので「嫉妬」どころか「羨望」すらない。
最近、彼女のエッセイ『洗礼ダイアリー』を読んだ。そのあとがきで、歌人の穂村弘に言った言葉が印象的だった。
「……大体、みんな『詩人の感性』って言いすぎなんですよ。人間の感覚なんて大概似たようなもんじゃないですか。脳みその構造はみんな同じなのに。ハッ、『詩人の感性』なんてあるわけがない!」
私はあまりに痛快で思わずハハ、と笑ってしまった。まったくだ。そのとおりだ。文学を勉強している、というと聞かれる「好きな小説は?」「あれは読んだ?」という試されているような質問にも、書店で働いている、というと「オススメは?」「じゃあたくさん本読むんだね~」というリアクションにも、私は完全に飽きていたのに、それに抗う言葉を見つけられないままこれまで生きていて、その答えをここで見つけた気がしたのだ。
何を学んでどんな仕事をして、誰と暮らしていても、あるのはあくまで自分の感性であるのに、なぜか「女性(男性)」とか「学生(社会人)」とか「ママ(パパ)」の役割や肩書きが先頭を切ってしまう。思ったことを素直に話しただけなのに、相手の世界観に合致しないとなぜかガッカリされてしまう。「そんな人だとは思いませんでした」「意外でした(悪い意味で)」なんてことを直接言ってくる人もいる。自分の思う世界を肯定したい気持ちはわかる。しかたない。だって、得体の知れない物事に出会うと不安になるから。でも「MIU404」で菅田将暉が「お前たちの物語にはならない」と言っていたように、誰かの見ている世界をより強固なものにするために存在しているのではないのだよ。だから、「脳みその構造はみんな同じ」だしみんな違うんだよ。
そして最後に、文月悠光のエッセイはすごくおもしろいよ。結局それが言いたかった。ジューススタンドの話と自撮りの話。これがお気に入りだ。
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