そこには痛みを伴う読書があって
アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んでいる。が、遅々として進まない。この本は数ページずつの小さな章に別れていて、それをできるだけ毎日、何章かずつ読んでいるのだが、できることなら一度にたくさん読み進めたい。のに、それができないのだ。
捗らない、という話は前にもしたことがあるので「またか」という感じだが、今回は理由が違う。その理由は、外国文学云々ではなく、タイトルにも入れた通り、この本の抱える「痛み」のためだ。
本書を読んだことのある人ならよくわかると思うが、時代と環境による辛く苦しい描写が多い。内容をまったく知らずに選んだわけではないのでそれなりの覚悟はしていたつもりだったが、やはり想像以上のエネルギーを使う。特徴的な文体も作用しており、読んでいると心が消耗してしまうのだ(文体については読み終わった後に話したい)。
昔からグロテスクだったり、人(特に女の人や子供)がひどい目に遭うような作品が苦手で、どんなに話題になっていても読まずにいることが多かった(それでも『その女アレックス』はがんばって読んだ)。
テレビで事故の映像が流れると「痛い痛い」と思ってしまうし、痛ましいニュースは辛くて見ることができず、即刻チャンネルを変える。年々感度が鈍くなっているような気もするが、それでもまだまだ反応してしまう。職場で他の人たちが「ひどい話だねえ」なんて言いながら悲しいニュースの話をしていると、つい耳が拒否してしまう。そもそも「痛ましい」「悲しい」とかぼんやりした言葉にしているのは、具体的に書くことすら辛くてできないからだ。
『悪童日記』は、書かれている内容に対して、淡々とした描かれ方をしている。うれしいはずのことも悲しいはずのことも、ずっと同じ温度で書かれている。だからこそ、その出来事と感情の距離感を思うと暗い気持ちになり、主人公の闇の深さと境遇の過酷さを思い知る。
やっと半分くらいまで読んだ。あと残り半分。読み終わった後、私はどんな心境になるのだろう。
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