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240127 10年

父が亡くなって今日で10年が経ちました。

この10年をどこでどう切り取っても、よく頑張ったねと自分に言ってあげたい。

14歳の私は、自分が大人になる前に親が死ぬなんてこれっぽっちも想像していなかった。

でも結局、お父さんは、

私がどこの高校に入ったのかも、大学で何を勉強したのかも、まさかその後に看護学校に入ることも、どんな友達とどんな話をしたのかも、誰を好きになってどういう恋愛をしてきて、これから先どうなりたいのか、なるのか、

知らないままです。

一緒にお酒を飲むことも、結婚式をすることも、人生相談をすることも、孫の顔を見ることも叶わなかった。

ちょっと怖いお父さんだったから、部屋の扉を開けるのは緊張した。二人でどこかに行ったことも数えるほどしか覚えていない。

今になってホームビデオを見返すとき、そんなお父さんが私たちにカメラを向けて、声をかけて、たくさんお出かけしてくれていたのだと知る。怖かったはずのお父さんはよく笑っていたし、よくふざけていた。

知ってほしいと思うことも多いけど、私が知らないこともきっとまだたくさんあるんだろう。

一家の大黒柱を失うということがどういうことか、分かりますか。

柱がない家は傾いて、なんとか堪えても折れて、傷だらけで、必死にそこにあるのです。きっと気づかなかった傷も見て見ぬふりした傷もいっぱいあった。

私が20歳になるくらいの時期から、自然と家族でいろいろな話をするようになっていました。あのときはこれが辛かったとか、本当はずっと泣いていたとか、誰にも言えなかったとか。
その中で姉に「甘えたかったはずなのに甘えさせてあげられなくてごめんね」と言われて、そこで初めて気がつきました。大人っぽいねとよく言われる私は、本当はそうでもしなきゃ生きてこれなかっただけなのです。大人にならざるを得なくて、一人で立つ力をつけなければならなかった。

父親の葬儀で大人にお酌してまわる中学生が傷を抱えていないはずないんですよね。気づけばその周辺の数年間の記憶は曖昧なことも多くて、その出来事がどれだけ衝撃的だったかを後になって実感したものです。

無くなってしまった大きすぎる柱の代わりにみんなが必死に生きていたら、10年経っていました。

でも、必死だったけど、私は不幸ではありませんでした。

自分と同じように相手も何か抱えているかもしれないと想像できること。
自分の傷に一緒に手を当ててくれる人もいるのだということ。
過剰に気を遣わないということがどれだけありがたいかを知ること。
大事な人にはちゃんと大事だよと言おうと決意できること。

そういうことを得られたから、この割とハードモードな人生でも、生きていけるような気がします。

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