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島嫁の憂鬱 【in AKIKO's cace】vol.1

 亜紀子はただ恋をしたかった。旅先で出逢った素敵な青年との恋である。だから亜紀子には大いなる打算もなかったし、小賢しげな芝居も無用だった。ただ純粋に恋をしたかった。ただそれだけなのに…。 

 ただそれだけだった筈なのに旅先で恋に落ちた亜紀子はその三ヵ月後に結婚していた。しかしだからと言って一般的に言うところのデキちゃった結婚ではない。単に早々に結婚しただけである。いいや、より正確を記すならば早々に結婚させられたと言うべきだろうか。もしくは早々に結婚に追い込まれた。又は『結婚という選択肢しか与えられなかった』と言うことになる。

 結婚式のその日まで怒涛という名の濁流が亜紀子を飲み込み、逡巡とか困惑とか動揺などの『迷い』と言うカテゴリーに属する思索の一切を何者かによって禁じられてしまったかの如く亜紀子を取り囲むものの全てが結婚という名の海を目指して、その海だけを目指して全速力で突き進んだのである。然るべくエンジンは幾度も焼け付きそうになったが、その度に回転数を落としたり、速度を下げたり、はたまた乗員を振り落として重量負荷を軽くしたりしながら決定的な破損を免れ続けたのである。ちなみに振り落とされた乗員というのは亜紀子が恋をした青年の叔父に当たる人であり、その叔父こそがゴリゴリの八重山ナショナリストであり、要するに伝統とか格式とか体裁とか名誉とかそういう重たげなものをこよなく愛する保守本流のうえに少々頭の固い変人であったから、由緒ある本家の長男たる者がナイチャー(本土出身者)を嫁にするなんぞ言語道断ではないか。そんな馬鹿げている上に本家の名前に泥を塗るような縁談は断じて認めんぞ!と強行なまでに結婚への反対を表明し、大多数を占める周囲の結婚推進派や容認派から総スカンを喰らう羽目になったのである。島での結婚式が終わり、亜紀子側の親族らが本土へ帰るまでの間、ナイチャー嫌いの叔父が得意とする保守的で偏屈な言論の一切は結婚推進派の手によって封じ込められたのだった。


  亜紀子が恋をした石垣島の青年『東恩納一郎(ひがしおんないちろう)』はまだ若干二十五歳の青年ながら家督の農業を継ぎ、一家の大黒柱としての役割を担っていたし、更には東恩納家・本家の長男として嫁を娶る日が来るのを親族一同は青年がこの世に生を受けたその日から切望していた。その切望は七年前から更に激しさを増して一郎に多大なるプレッシャーを与えていた。七年前とは一郎が高校を卒業した年のことである。一家の大黒柱たる長男ともなると早期の結婚、早期の嫡男誕生を周囲より求められるのは石垣島に生まれ育ち、そして永遠に暮らして行こうと決めた者なら誰もが背負う定めなのであり、それゆえに一郎もまた亜紀子と付き合ったその瞬間から彼女のことを『嫁』としか認識していなかったのは言うまでもない。何も知らず無邪気に恋愛を楽しむつもりでいたのは亜紀子だけだったのだ。

 亜紀子は、初めて一郎の両親と顔を会わせたその折に一郎の父親の口から発せられた言葉をもっと真剣に考えるべきだった。「ほう。あなたが亜紀子さんね。こんにちは。本土の方なんだって。よろしくお願いしますよ。で、式は来月でいいんだろ。え?何って、この場合、式って言ったら始球式や表彰式じゃないだろう。やっぱり結婚式しかないでしょう。ね、そうでしょう。まぁ、でも来月はさすがに早すぎか。今からじゃ式場を押さえられないな。うんうん。じゃ、再来月でいいね。全日空ホテルのフロントには私の同級生がいるから大丈夫。うん、私に任せておけば大丈夫だから。うんうん。大丈夫大丈夫。大船に乗った気でいなさい。ガハハハ。な、亜紀子さん大丈夫、大丈夫、ガハハハハハハ」 そんなふうに豪快に笑うから亜紀子は一郎の父親がふざけて言っているとしか思っていなかった。相手の親と初めて会ったその瞬間に結婚を決められるなんてそんな馬鹿げた話は聞いたことがなかったし、父親の馬鹿げた話を隣で聞いていた一郎の母親のほうはこうも言っていたのだ。「お父さん、気が早すぎますよ。ねえ亜紀子さん。二人は一昨日に出逢ったばかりなんでしょう。最近の若い人は結婚なんてまだまだ考えないわよねぇ。そうでしょ亜紀子さん。結婚はもっと先の話よねぇ。お父さんは気が早すぎるわよ。そうでしょ亜紀子さん。いやねぇお父さん。オホホホホホ」 などと母親が上品に笑うのを見て亜紀子も曖昧に笑って受け流し、その場をやり過ごしたのである。 しかしそれがいけなかった。曖昧に笑うだけで結婚の二文字を否定しようとしなかった亜紀子を見て一郎の母親は『この娘は簡単におとせる。間違いない!』と断定し、あっという間に結婚推進派の旗手へと鞍替えしたのである。それも亜紀子にはそうとは悟られぬよう素早く、そして迅速に態度を翻したのだった。やはり、知らぬは亜紀子ばかり…


 一郎の母がその手で握り締め、頭上高く振った結婚推進の旗は大きく力強く、誰もその手を止めることは出来なかったし、一郎の母親が然るべくして確信犯であることは間違いないのであるが、少々世間知らずな亜紀子がそのことに気付くのはもう少し後のことであった。(つづく)

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