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映画を観に行こうか悩む。

PVなどの公式を観ると、映画「エゴイスト」は浩輔と龍太の恋愛にフォーカスされているのかな。
こんなことを書いているあいだに観に行けばいいという話だが、「ドライブ・マイ・カー」の時のように、モヤモヤモヤモヤしまくるかもしれないと思うとどうも腰が重くなる。

ブログ記事に書いた通り、自分は原作「エゴイスト」の浩輔の人物像がとても好きだ。
「性的マイノリティ」という社会において生き方のモデルケースが見つかりづらい属性だからこそ、「意識的に自己を規定する」という生存戦略をとらざるえなかった。そう強いられたことを、逆に強みとした生き方をしていることに自負と自信を抱いている。
浩輔は「自己は社会によってではなく、自己によってのみ規定されなければならない」(少なくとも自分はそうしなければ生きられない)という文脈の中で、「龍太を自己の一部として、『母』に捧げた」。
とてつもなくエゴイスティックな発想だが、社会の中で普通の「お嫁さんをもらうことで大人になる」という生き方から弾かれている浩輔は、それが「他人の物語」であっても個人依拠によって生き方を打ち立てざるえない。

社会の中でパターンを想定されていないがゆえに(だから浩輔の母は「大人になっての幸せ=お嫁さんをもらう」というパターンを悪気なく提示してしまった)自己を規定するのに自己しか頼るべき規範がない。そのために「エゴイスト」にならざるえない。
浩輔が龍太の物語を乗っ取らなければ「母との和解の物語」を確立出来なかったのは、浩輔の母親に「息子が大人になり幸せになる→それはお嫁さんをもらうこと」というパターンしか提示出来なかった社会の問題につながっている。

原作に対する見方が自分とは違うとしても、映画は映画でいいと思うのだ。聞こえてくる評価もいいものばかりだし。

ただ「浩輔は龍太を、自己の一部として母に捧げた」という文脈がなくなると、タイトルの意味も浩輔の人物像もすべてが変わってしまう。

社会の規範に依拠しないがゆえに、ゲロを吐くほど罪悪感でドロドロになっても「自分が自分としてあるためには引き返すことが出来ない」。そう思い、自分に必要な物語を追求する浩輔という人物も、自分が凄く面白いと思ったノワール小説であり罪と赦しの物語である原作「エゴイスト」も、自分の頭の中にしか存在しないのかもしれない。
そう思うと観に行くことを躊躇してしまうのだ。
原作の余韻が落ち着いたら観に行こうかな。

*原作の感想。


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