「閉じられた共同体の論理」を構成するものは何か。そこから脱け出すにはどうしたらいいのか。

「特攻の島」は「人間魚雷・回天をめぐる物語」として読んでも面白いが、「強固な共同体の論理」からどうやって脱け出すかという観点で読んでも面白かった。

 物語の背景が「敗戦間近の日本で特攻を強いられる」という状況であるため、「共同体の論理がどれほど個を抑圧し圧殺するか」がわかりやすい。

(引用元:「特攻の島」2巻 佐藤秀峰 佐藤製作所)
板垣は本当は部下思いの優しい人間だが、そういう人でさえこの時代の軍隊では非情な抑圧者にならざるえない。視察に来た牟田口もどきは記事に載せたくないのでやむえをえず代打。

「特攻の島」ほど極端でわかりやすくはないが、現代も状況自体はさほど変わらないのではと思う。

「エコーチェンバー」「フィルターバブル」
 そう呼ばれる「特定の論理に閉じ込められる現象」は、今も問題になっている。
 一体なぜこういう現象が起こるのか。

 よく指摘されるのがアルゴリズムの影響だ。
 自分が興味があり、その中でも持論に都合がよい(肯定するような)情報にしか触れなければ、その価値観が「一般的で間違っていない」と考えるようになる。
「特攻の島」で渡辺たち予科練生が置かれた状況は、今の時代から見れば信じられないほど馬鹿げた異常な状況だが、誰もその状況の疑義を挟むことができない……以前に疑問を持つことすらできなかった

 さらに上記の理由以外に「特攻の島」を読んで感じたのは、「一定の論理を共有する場から逃れらなくなる」のは言葉の問題があるのではないかということだ。
 特定の言葉を使っていると、その言葉に沿った概念の区切りかたしかできなくなる(さらに、その言葉では区切れない概念は認識できなくなる)。
 そういう「言葉と認識の問題」は色々なところで取り上げられている。

 例えば有名な連合赤軍事件において、女性兵士がなぜ自らの女性性を抑圧し否定するような言説に唯々諾々と従ってしまったのか。
 新左翼の言語の中に(そしてそれ以前の男性言語の中に)この時代の女性たちの内部に芽生えた「私」(主体としての女性性)を表現する言葉がなかった、ゆえに「女性性」への抑圧に対抗する言葉もなかったからではないか。
 大塚英志がそういう指摘を著書の中でしている。

 ところが意外なことに、「マルコポーロ」で永田洋子のイラストに添えられた高沢晧司の文章は彼女のイラストに一切触れることなく、少なくともぼくにとってはひどく読みにくい「新左翼」の言葉で連合赤軍事件を検証しようとするものだった(略)
 永田がかつて山岳ベースでふりかざしたであろう生硬な思想のことばを何らかの形で共有する人々は案外彼女の「乙女ちっく」なイラストの意味を理解する感覚を持たないのではないか(後略)
 そういう政治的・思想的ことばから抜け落ちるところに永田のイラストは位置し、そして、別の歴史的文脈の中においたときにその意味が明らかとなる性質のものではないか。

(「彼女たちの連合赤軍」大塚英志 角川文庫 P10- P11/太字は引用者)

 ここで小嶋が「私」について語るために用いた少女趣味的なことばは、彼女と同時代の少女まんが家たちが「私」語りのために用いた言葉と恐らく同種のものと思われる(略)
 森はその小嶋の「ことば」に対して彼自身その理由を言語化し得ないまま否定する(略)
 連合赤軍の人々が山岳ベースで対峙せねばならなかったのは、少女まんが的な「私」語りの「お話」であり、それは小嶋をはじめとする連合赤軍の女性たちが共有する時代精神だった。

(「彼女たちの連合赤軍」大塚英志 角川文庫 P19/太字は引用者)

 言語には表現できない(存在しない)概念がある、ゆえにその概念に接続、共有できる言語を作り、考えを組み立てていくべきだ(世界を一から構築すべきだ)ということは色々な分野で指摘されている。
 フレンチ・フェミニズムの代表の一人であるシクスーは「男性言語に支配された世界を破壊するものとして、女性言語『エクリチュール・フェミニン』の構築」を提唱している。
 またポストコロニアルの作家たちは、支配言語である植民地支配国の言葉で作品を書くべきか、それとも現地の言葉で書くべきかを論争している。

 言葉によって人間の認識(考え)は構成される。特に文字の力が強いネットはそうだ。
 自分の中でどの概念を区切っているかをある程度定めていない言葉を使うと、その空っぽの言葉に他人の考えが入ってきて世界を構成されてしまう。

 また仲間内のみ共有する言語を符丁のように使いあい場を形成すると、かつての新左翼用語がそうだったように、他の場所から隔絶した極端な世界が構成されていく(※1)
 ネットを見ていると、意外とあるあるの現象じゃないかなと思う。

「特攻の島」の主人公・渡辺は「戦争中の時代に、貧しい家に生まれたため、軍隊に入り、回天に乗り死なざるえなかった」
 現代から見たら、過酷で異常な状況に閉じ込められていた。
 日本全体がその鋼鉄の論理に閉じ込められていた時代だから、どこにも逃げ場はなかった。
 だが渡辺は、最後の最後でその論理から脱出し、戦争中の軍隊では言うことが許されなかった「生きて帰ってきた者を温かく迎えてあげてください」という言葉を言うことができた(※2) 

「自由がある現代」でさえ、エコーチェンバーが問題になっている。それくらい人間の認識は特定の論理に閉じ込められやすい。
 渡辺は国全体が一元化された鋼鉄の論理に否応なく閉じ込められた中で、自分の言葉で自分の心の内を語ることができた。
 渡辺がそう出来たのは「絵を描けた」ことが大きいのではと思った。

 絵は情報の発信のしかたも受信のしかたも言葉とはまるで違う(自分は絵が描けないから受信の感覚しかわからないが)

(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
この絵、好きすぎて無限に見ていられる。

「回天は自己の内部の暗喩である。宇宙は個人を取り囲んでいるが人の内部もまた宇宙であることを表していて」
などと自分が↑の絵から受け取った感覚を、いくら言葉で説明しても虚しい。
 この絵一枚を見れば、そんなことは説明しなくても伝わってくるし、それ以上のものを受け取れる。
 何万文字かけて説明されるよりも、この絵一枚で渡辺がどういう状況に置かれているか、渡辺の存在がどういうものかがわかる。

 言語で構成された論理とは別の回路である「絵」を通しても、世界から情報を見つけ受け取ることができた。
 だから、渡辺は言葉で構成された世界から脱け出せたのだ。そう思った。

(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
「絵は手で描くんじゃない。目で描くんだ」という言葉に、なるほどと思った。なるほど。

「特攻の島」は色々な角度から読めて、どの角度から読んでも傑作だと思うが、個人的には「(戦時下の)言葉によって構成された世界を絵の力によって打破する」ところに強い印象を受けた。
 漫画(映像)でしか出来ないことをしているのが凄い(小波感)

 暗くて悲惨で救いがない話だったが、凄くエネルギーをもらってとても励まされた。

(※1)ネットミームのような仲間内の遊びでやるのはいいと思う。ネットの楽しさのひとつは、言葉(概念)の共有による場の形成にある←すごく好き。
(※2)当時は自分が死ぬとわかっている特攻の前ですら、こんなことを言うことは許されない。そういう論理に心の中まで支配された時代だった。

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