「性格が悪いと思うキャラは?」という質問の答えには、その人の世界観、人生観が表れる。
◆「性格が悪い」とはどういうことなのか。
「このキャラは嫌い、自分にとって不愉快だ」と思うキャラはいても、そのキャラが「性格が悪いのかどうか」はよくわからないことが多い。
自分にとっては不愉快だが、他の人にとってはそうでもない、むしろ好ましい(逆も然り)こともある。
「どのキャラが性格が悪いと思うか?」という質問の答えは、「どのキャラが好きか/嫌いか」という質問以上に、答える人の人生観や世界観が出る。
抽象的な言葉をどう解釈するか(しているか)は、その人の世界観によって決まるからだ。
というわけで、試しに考えてみた。
◆「性格が良い」とは、自分とは違う他者の文脈を読み取ろうと努力し、それを尊重できること。
「性格が良い=優しい」とは、「自分とは違う事情を持ち、違う人生を経てきた他人の認識を尊重できること」だと思う。
ヒンメルの凄いところは、フリーレンに対してだけではなく、誰に対しても同じ対応をしているところだ。
だからみんなが「勇者ヒンメルならそうする」を行動規範にする。
「葬送のフリーレン」の作内では、「勇者ヒンメル」は「人格者・優しさ」を概念化した言葉として機能している。
その逆の「0日で良くない?」「辞書に書いてありますよ」のように、個々人によって違う他人の認識を一切読み取らず前提として組み込もうとせずに、自分の認識のみをゴリ押しする態度や言動が「優しくない→性格が悪い」である。
ひろゆきが子供に人気があるのは「個々人や状況の条件を読み取るという複雑で面倒臭いことをせず、原則論で押し通すことがあたかも正しいことのように見せるわかりやすさ」にあると思う。
子供は「相手には相手の固有の事情があり、それを尊重し合う」という複雑で面倒臭い人間関係を学ぶ過程にいる。成長する過程で教導されたり実際の人間関係の実践を通して、トライ&エラーを繰り返しその複雑さ、面倒臭さを学ぶ。
本来であればそんな面倒臭いことは、大人もしたくない。(フリーレンが指摘しているように)
だからヒンメルのような具体例としての行動規範を必要とするのだ。
「葬送のフリーレン」は、「他人を知る、思いやる、尊重するとはどういうことなのか」という道徳の教科書めいたことが描かれている。
だが結論に向けて話を誘導したり文脈を強調していないために、エンタメとして読むこともできる(そして面白い)
そこが凄いところだと思う。
まとめると自分にとって「性格の良い人(人格者)」は、「自分とは違う、他人の認識・事情・状況を尊重できる人、前提をすり合わせようとする人」だ。
「性格が悪い人」は、意見の賛否以前に「他人と前提となる条件をすり合わせようとする姿勢をまったく見せずに、自分の認識のみで対象を解釈する人」となる。
◆「性格が悪い」と「存在が邪悪」の境目は、悪意があるのか無能なのか。
では「葬送のフリーレン」の魔族は「性格が悪い」のか。
自分が考えだと、魔族は性格は悪くない。
魔族は「性格が悪い」(理解できるのにしない)のではなく「存在が邪悪」(理解不可能)なのだ。
人類を理解しようとしているマハトは性格は悪くない(性格を判断する範疇にない)
「性格は悪くない」からこそ邪悪なのだ。
存在が邪悪(理解不能)な魔族は、「人格者」であるヒンメルでさえ理解しようとするのではなく殺すしかない。
「性格が悪い」と「存在が邪悪」の境目は、「相手の認識が理解できるのにわざと無視するか、認識すること(実感すること)自体が不可能なのか」である。(だからマハトは人間に対しては『悪意』を抱けない)
「悪意なのか、無能なのか」の違いである。
◆答えることで自分の認識が露わになる質問
「性格が悪い」は「主観的な判断を、あたかも客観的な評価のように装っている言葉」なので、対象を判断することによって、自分の判断基準(認識)が露わになる。
自問して深堀すると、自分がどういう認識を持っているかがわかりやすい。
◆ソリテールはマハトに対して「性格が悪い」
ソリテールは人類にとっては「存在が邪悪」だが、同じ魔族であるマハトにとっては「性格が悪い」
自分はマハトに感情移入しがちなので、ソリテールとマハトの会話を見ると「ぐぬぬ」という気持ちになる。
出来ないこと、わからないことを馬鹿にされている気持ちになるのだ(被害妄想)
「ふーん、おもろw」みたいな顔をしている。
こっち(?)は真面目に話しているんだよ(怒)
……何なの……この人。
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