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「好きな配信者が死んだ話」の感想。

 昨日、読んだこの話について。

 現実に起こった事件を想起させる部分もあるけれど、とりあえず完全に創作として読んだ感想を書きたい。 (*ネタバレ注意)

 凄く良かった。

 自分がこの話で一番良いなと思ったのは、ルカと福田にとってアマニが「本当に神だった」ところだ。
「神」とは何か。
「人ではないもの」だ。
 もっと言うと「生身の人間ではなく(神という)概念」だ。
 ルカと福田にとって、アマニは都合よく扱える概念だから「神」なのだ。

 二人の中には、アマニが死んだ原因や経緯、不摂生がたったということはハンバーガーのドカ喰いを止めなかった自分たちにも問題があったのでは、という発想がない。
「自分たちがアマニに殉死することを、アマニがどう思うか」という発想もない。
 福田が一度だけ「アマニさんだったらこの状況を笑い飛ばす」と言っているが、それ以外だと「アマニがどういう人で本当は何を考えていたか」と考えることがない。
 二人にとっては「アマニが死んだ(神がいなくなった)」という事象のみがすべてだ。
 アマニが配信で話すことを啓示のように「本当のこと」と受け取って、その先の「アマニという生身の人間が何を思って話し、配信をしていたか」を想像しない。
 二人にとって「神は自分たちに一方的に作用する上位概念」だから、「自分たちがアマニに何か作用してしまったかもしれない」とは思えないし、「作用しうる可能性」も思い浮かばない。

 福田とルカの「自分の中の概念であるアマニへの畏敬からくる、生身のアマニへの興味のなさ」が物凄くリアルだ。
「アマニ(自己の中の概念)の話を語り続けることにしか二人とも居場所がない」→「自己(のアマニという概念)の枠組みに閉じ込められたまま」という結末は、いい話風でまったく救われていない。

「自分の中の神の概念を当てはめた存在」であるアマニも、そのアマニという存在を共有するだけの存在であるルカと福田も、お互いに(厳密に言えば)「自己」でしかない。
「自己の中の概念に対して殉死する」という枠組みから脱せないこの話は、自分の中ではかなり後味の悪い話だ。
 そこが凄く良かった。
 そんなに簡単に「救われる」なら、「身も知らない配信者の配信にしか居場所がない」ような状況にはそもそもならない。

 福田とルカが他者に居場所を見出すには(『二人が他者同士になる』でもいい)「アマニを生身の人間(他者)だと認識するターン」が必要だ。
 福田とルカがアマニを生身の人間として捉えられたら、二人は「救われる」。
 そこに「居場所になる可能性がある他者」が発生するからだ。

「救われエンド」の場合、作内に「生身の(神ではない)アマニ」が存在しなければならない。
 生身としての質感がある「アマニの背景」が必要になるので、かなりの大長編になるはずだ。

 アマニにとっても、自分と同じように生きづらい人が自分を概念化して居場所としてくれることが生きる意味だった。
 二人が「アマニという神」の配信にしか居場所がなかったように、アマニにも「概念化された自分を必要としてくれる人」しか居場所がなかった。
「見も知らない他人に概念化されることにしか居場所がない」というのは、そうとう重い背景が考えられる。
 作内でも「親の借金のせいで自己破産している」とか「生き急いでいた」という背景を匂わせる言葉が出てきている。

 アマニには背景がないから、「神という概念」で作内で(二人の中に)存在できる→二人には他者は存在しないので救われない。
 アマニの背景を書き込むことで、作内に「生身のアマニを存在させる」→二人がそれを受け入れれば救われエンド。

 この話は全体的にはこういう構図だ(と思う)。

 なぜ殺したり死んだりするところまでにいってしまうのか。
 大げさに言えば自己の存在証明、日常の言葉で言えば「居場所問題」は切実な問題だ。
 ルカのように家庭が「居場所」として機能していない子供の場合、それこそ生き死にの問題になってしまう。

 そういう問題を背景に持つ話として長編で読んでみたい。
 重松清の「疾走」ばりに激重の話になりそうな気はするけれど。


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