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「鎌倉殿の13人」と「進撃の巨人」の女性キャラの面白さ。

第12回「亀の前事件」が想像を遥かに超えて面白かった。

「鎌倉殿の13人」の第12回「亀の前事件」は想像以上の面白かった。
三谷幸喜の本領であるシチュエーションコメディの上手さが爆発していて、何か起こるたびに「えええっ?!」「そうくるかあっ!」「どうすんだよっ、これっ!」と一人で画面に向かって叫び、最後は「うひゃひゃひゃっ!」と笑って終わった。
あの展開は笑うしかない。

パパ政がついにキレてしまった。
作内で考えると「突然キレた」というイメージで(だからみんな驚いている)、見ているほうとしてもその瞬間は「ええっ!? ここで?」という驚きがあったが、ストーリーの積み重ねで見るとスッと納得出来る。

「そのシーンでは『ここでキレるのか』という驚きがある」
「ストーリー全体を見ると、その人がキレることは不自然ではない」

この二つが同時に成り立つ、しかも滅茶苦茶面白いところが凄い。

頼朝と時政もそうだが、頼朝と義経の関係もどこか歯車が合わず、その合わなさが積み重なっていく描写が上手い。
この関係性が後の展開につながるのかな。

「鎌倉殿の13人」と「進撃の巨人」の女性キャラには、「一般的な意味合いでの『女性に期待される性格の良さ』」がない。

今回、政子がりくについて言った言葉にのっかって言うと、三谷幸喜が描く女性は一般的な意味合いでは「性格が余りよろしくない人」(穏当な表現)が多い。
そのほうがコメディ要素を生み出しやすいから、だと思うけれど、作内で言及されたりくだけではなく、亀もなかなかである。
もしかしたら作者としては「素敵な女性」として描いているのかもしれない、八重も、なぜ義時があれほど入れ込むのかわからないほど微妙な性格(穏当な表現)をしている。

ちょうど前回「進撃の巨人」のことを久しぶりに書いて「そう言えば『進撃の巨人』の女性キャラも、一般的な意味合いで言えば『性格が特にいいとは言えない女性』が多いな」と思った。「女神」「結婚したい」と連呼されているところを見ると、作内でもヒストリアのような女性が「性格がいい」とされていると想像がつく。
「異性から好かれやすい性格」をしているヒストリアは、エレンから

「他はどうか知らねえけど、オレは以前のお前が結構苦手だった」
いつも無理して顔を作っている感じがして…不自然で、正直気持ち悪かったよ」

「進撃の巨人」13巻/諌山創/講談社/太字は引用者

と言われている。

自分は「進撃の巨人」は作者の内的世界であり、ヒストリアを含め女性キャラの「女性という属性」にそれほど大きな意味はないのではないかと考えているが、作内で頻繁にヒストリアが「男たちの憧れで好かれやすい」と描写されている通り、「進撃の巨人」の他の女性陣はいわゆる「一般的な女性らしさ」とは無縁だ。

「性格がいい」「女性らしさ」という言葉では少し曖昧すぎるので、「鎌倉殿の13人」や「進撃の巨人」の女性キャラに、「一般的な意味合いでの『女性らしい性格の良さ』がない」と思わせる要素は何なのか、を考えてみた。


一般的な意味合いでの「性格がいい」は、「自分の感情よりも周囲への配慮を優先すること」

これらの女性陣は、元首相の発言になぞらえれば、「わきまえていない女性」である。
「わきまえている」とは何か、と言えば「周囲に対する配慮」「空気を読む(読み続ける)こと」だ。それがいわゆる「女性らしい」と歓迎される、控えな態度、受容的な様子、包容力、愛嬌や愛想につながる。

対男性だとジェンダー問題などに収束して「今の時代の女性はこれでいいのだ(いいと思うが)」という話で終わってしまいそうなので、「現実社会の方向性」はとりあえずおいておいて、「創作のキャラクター像として」もう少し考える。

なぜ「鎌倉殿の13人」や「進撃の巨人」の女性キャラが特異に見えるのか(読み手としての意見もそうだが、作内でも「意地が悪い」「ヒストリアの女神扱い」などで明示されている)と考えると、感情の表出が直接的すぎるところにある。
「好き嫌い」「相手に関心がない」こういう感情を、この二作品の女性たちは露骨に出す。


「女性向けの漫画はなぜ人間関係の話が多いのか」→現実でハイコンテクストな人間関係の調整を期待されているからでは。

以前、「女性向けの漫画は人間関係ばかりだ」という意見を見たが、これはたぶん現実の女性が、複雑な人間関係の調節を行って(もしくは期待されて)生きているためだ。


と書くと、男女の対立のような話になってしまいそうになるが、そうではなく、恐らく女性同士でも「女性は人間関係、場の調整役をそれなりにこなせる、こなすだろう」と期待し、期待されてしまう部分がある。
(「鎌倉殿の13人」では、公的にも家族などの私的な部分でも「人間関係や場の空気の調整役」を男である義時が期待され、行っている。義時は性格的なものだが、女性は女性という属性だけで、ああいう立ち回りを期待されてしまう、という推測)

「進撃の巨人」の女性キャラ同士の関係は非常にドライだ。
アニが裏切り者だと分かったとき、異性であるエレンのほうが信じられない、裏切られてショックという感情を露わにしたのに比べて、ミカサはすぐに頭を切り替え、始末しようとしている展開が特に象徴的だが、他の女性キャラ同士もお互いに関心がある様子がほとんど見られない。(ヒストリアとユミルの関係は恋愛関係なのでちょっと枠から外れる。)
女性は基本的に「同性とも仲良くしなければいけない→仲良く出来ない人は問題がある」ということを刷り込まれており、そういう関係性が理想化されているため、女性キャラ同士の描写としてこれは凄く珍しい。

創作だけで言うなら、男性キャラ同士は「仲が悪い、もしくはお互いに人としては関心はないが『認め合っている』」という関係……ライバル関係のほうが理想化されている印象がある。
仲間であるからと言って、「自分の感情を無視して、仲がいいこと、波風を立てないことによって関係性を調和させる配慮をしなくてはならない」という圧力とは無縁に感じる。


社会という外圧によって同じ方向性のキャラしか出て来なくなることが一番危うい。

「鎌倉殿の13人」や「進撃の巨人」の女性キャラは、「自分の個人的な感情よりも、関係性を調和させる配慮を優先させる様子」がほぼ見られない。

面白いと思ったのは、この二作品を見ると、むしろ異性の作者のほうがその性を縛る社会規範を無視できるのではないかと思えるところだ。

「規範に縛られないこと」=「いい創作、面白い創作」とは限らない。
自分の感覚だけで言えば、まったく関係がない。
規範に対する是にしろ非にしろ、社会という外圧によって同じ方向性のキャラしか出て来なくなることが危ういと思っている。

創作は「社会の正しさ」にとって常に潜在的な批判者であり、だからこそ個人にとっては唯一にして最大の武器となる。
強大でその内部では是非を問えない社会を、相対化し続ける個人の目として、後世まで存在し続ける。
支配者から最初に標的にされることが多いのはそのためだ。

社会規範に縛られないキャラも、規範に苦しむキャラも、規範の存在に気付かずにただ当たり前のこととして従っているキャラも、規範と戦うキャラも、多様なキャラが多様なストーリーを織りなせるのが創作のいいところ、面白いところだ。


まとめ

社会規範を通して見てしまうと、「鎌倉殿の13人」の女性たちは「性格が悪い」「感情(特に好悪)を露骨に出しすぎる」であり、「進撃の巨人」の女性たちは「自分の興味がない相手に対して、余りに無関心すぎる」「周りの空気を気にしなさすぎる、愛想がなさすぎる」となるのだろう。

そういう「異性にはもちろん、同性とも表立っていがみ合う、もしくは無関心を露骨に出す、配慮をしない、空気を読まずに自分の感情を表に出す。今の社会の一般的な意味合いでは性格が良くない→それゆえ社会規範から外れている女性キャラ」もどんどん増えていくといいなと思う。


(余談)
*普段は「仲が悪くていがみ合っている」「嫉妬していて意地悪」だからこそ、りくが政子のために頼朝に訴えるシーンがジーンとくる。
「あなただけには聞かれたくなかったわ(ツン)」と言っている姿を見ると、一瞬で好きになってしまう。←単純。

*「進撃の巨人」では性別はそれほど重要ではなく、属性の中で最も大きな要素は「父親と息子」だと思う。
「父親と息子」の関係については、グリシャ父ーグリシャ、グリシャージーク、グリシャーエレン、ケニーーリヴァイの疑似親子、エルヴィン父ーエルヴィン、アニ父ーアニ(アニは女だが、この話は女性という属性の意義が余りないので、これも父親ー息子の関係の亜流だととらえている)、ライナーも直接は母親との関係になっているが、母親との関係の深層に「いなくなった父親」が強く作用している、と「父と息子」の関係が繰り返し出てくる。
特に「父親を裏切った息子であり、息子に裏切られた父親」であるグリシャの人生は、その象徴だと感じる。

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