「私説三国志 天の華・地の風」感想4 プリンセス孔明による「主人公教」になりかかっているけど、大丈夫か?
「私説三国志 天の華・地の風」を五巻まで読んだ感想。
*タイトル通り、今回は否定気味な感想です。
前回。
四巻で劉備が死んだ。
ここまでは面白かったのに、五巻で(自分の中で)一気に失速した。
五巻は急激に「主人公教」が進んでいる。
「主人公教」とは、物語内で主人公の言動や価値観を相対化する視点がなくなる(もしくはあるが、物語的に効力を持たないことが明らかな)現象を指す自分の造語だ。
相対化する視点がなくなるので主人公が絶対化し、ストーリー内の全ての現象が「主人公にとっての意味」しかなくなる。
「主人公を甘やかすためだけに存在する世界」になってしまうのだ。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/12/24/130912
この現象が起こると話が(自分にとっては)急激につまらなくなるので、五巻は一転して読むのが辛かった。
「天華」はそれまでも「主人公教」に傾きそうなギリギリのラインを保っていたが、五巻はそのラインが崩れてしまった感じがある。
「主人公教」は「感想2」の記事で書いた「プリンセス」と悪い意味で相性がいい。
四巻までも孔明の被害者意識がひどすぎて、ツッコミがとまらなかった。
陛下の許で、私は一度として人として扱われたことはない。軍師、軍師と奉られ、知識の袋、物を考える道具として大事にされていただけだ。
(引用元:「私説三国志 天の華・地の風4」 江森備 復刊ドットコム)
孔明は誰かを「人として扱ったこと」があったか?
むしろ「大事にした」だけ、孔明よりも劉備のほうがまだしもマシではないだろうか?
「関羽の本性を見抜けなかった」と言うけれど、孔明は自分の「本性」についてはどう思っているのだろう?
ここまでナチュラルに自分を棚に上げられるキャラはなかなかいない。
呆れるのを通り越して感心してしまった。
「プリンセス」には、「人間(自分も他人も含めて)はそんなもの」という時の、「人間」という「自分という個を包括する上位概念が存在しない」、もしくはそこから無意識に自分だけを外しているのではないか、と思っている。
「感想2」でこう書いたが、さすがに劉備も劉封も関羽も張飛も死に追いやって被害者面することには、首をひねってしまう。
自分が選んだ主体的な行動をあたかも「やらされた」かのように考えがちなのもプリンセスの特徴だ。
仮に劉備が孔明を「物を考える道具としてしか大事にしてこなかった」としても、そういう人に仕えると決めたのは自分自身だという意識があったら、「物としてしか扱われてこなかった自分、可哀想」というセリフが出て来ないと思うけれどな。
主人公の孔明に限らず(劉備も『孔明の言う通りに今までやって来たのだから、もう自由にしてくれ』と言い出す)この話の全体が「自分が選んだ行動も、あたかも『させられたかのように考える』世界に対して受け身の姿勢→やらされている自分可哀想」という発想が根底にある。
だから「プリンセス的価値観」を相対化できないのではないか、というのが五巻まで読んだ感想だ。
四巻の劉備と孔明の「どっちが息苦しかったか」のお気持ち対決のように、同じ価値観の中での「被害者の椅子の奪い合い」なので、その価値観自体は相対化できない。
自分から見ると「天華」の登場人物は、みんなそれなりに冷たく残酷で、弱くて自分のことを棚に上げまくる。孔明が特別、冷酷なわけでも弱いわけでも強いわけでもない。(自分のことを棚上げ度はナンバー1だが)
要は「プリンセス世界」で誰が一番のプリンセスかを争っているように見えるのだが、みんなが非情さも強さも弱さも孤独さも「孔明だけ特別」のように言うので、その争いも出来レースに見えてしまう。
五巻は読んでいて終始イライラしたが、特に棐妹にはがっくり来た。
孔明が好きなら好きでいいけれど、筋は通してくれ。
孔明が好きだからこれまで世話になった孟獲やその配下を裏切っても構わないというのは、どういう心境なんだ。あれくらいの目に合わされて当然だろうと考える自分がおかしいのだろうか。
魏延も孔明の棐妹に対する仕打ちを怒っていたが、自分が燕郎に対してしたことはどう思っているんだ。忘れているのか?(覚えてる描写があるから、余計に混乱する)
「それを責めるなら、自分がしたこの行為はどう思っているんだ?」という基準がわからなすぎて、読んでいる間中、首を捻っていた。
「主人公教」が発動すると、「世界が主人公のためにのみ」動き出すので、周りのキャラの言動や価値観に一貫性がなくなる。
四巻までは「存在自体が孔明のツッコミ役」である劉備がいたので良かったのだが、劉備がいなくなった瞬間に孔明へのツッコミ役がいなくなったので読むのが辛くなった。
魏延とのバカップルぶりもどうなっているんだ、お前ら急にどうしたんだ。
五巻は終始イライラしたので、読むのをやめようかと思ったが、四巻までは本当に面白かったのでまた戻っていることを願って、とりあえず読み続けようと思う。
貴君には不思議な魅力があるようだ。
人は貴君の冷たさを畏怖し、人の心を操りつづけることに嫌悪し、だがやがて、我と我が身をすりへらしてそれに徹し続ける貴君に引き込まれてゆくのだ。
(引用元:「私説三国志 天の華・地の風4」 江森備 復刊ドットコム/太字は引用者)
自分は孔明みたいな人間が余り好きではないので(穏当な表現)、法正とは違い、「人を信頼出来ないから、支配しておかないと安心できないだけでは」という言い方になるが、基本的には「天華」の孔明はこういう人なのだろうと思っている。
自分が傷つけられた経験から支配ー被支配の関係でしか人と繋がれない中で、その「間違ったこと」を生き抜こうとするところが斬新だし面白かった。
「深い傷」が人に受け入れられることによって癒されるというのはある意味きれいごとで、その傷を抉り続け、周りにいる人間全員に同じ痛みを味合わせ続けることでしか、その傷を受けた肉体と魂で生きることが出来ない、そういうことを描いているなら「三国志」という枠を超えた凄い話だ、と思っていた。
ただ「周りにいる人間全員に同じ痛みを味合わせ続けること」を物語内で肯定したら、それは自分を傷つけた人間と同じことをすることを肯定することになってしまう。
誰からも肯定されずに、「間違ったやり方」でその傷を生きる姿を見せて欲しい、と思うのは期待しすぎなのかな。
続き。7巻までの感想。