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「鬼滅の刃」における「兄」とは何なのか&兄上(継国巌勝)についての独自解釈を語りたい。

 前回の記事の続き……というより、思いついたことがあって考え直したので、その話をしたい。

※原作のネタバレがあります。
※独自解釈が爆発しているので、「解釈違いでも気にしない」という人のみお読みください。


◆「鬼滅の刃」の「兄」は、作内ルールを超越する特別な存在である。

「鬼滅の刃」は家族の絆が大きなテーマになっているが、その中でも「兄弟(妹)」はさらに特別だ。
 主人公の炭治郎が鬼になってしまった妹・禰豆子を人間に戻すために旅をしているように、「兄」(もっと言うなら長兄)は「鬼滅の刃」で明示されている強力なルール「鬼と人間は決して相容れない」さえ乗り越えることが出来る。
「鬼滅の刃」における「兄」は、物語内のルールを超える力を持つ存在である。

「兄」はなぜ、そんなに特別な力を持つのか。
 弟や妹を守るためだ。

(引用元「鬼滅の刃」19巻 吾峠呼世晴 集英社)
「弟を守るためなら母親を殺す」それが「兄」
(引用元「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)
有一郎は作内における物理的な力は弟に劣るが、弟を守るという強い意思を持っている。

「兄」は弟や妹を守るために、物語内に張り巡らされているルールを超越することが出来る。そういう役割を持っている。

 鬼になり人間に対して許されない罪を犯し、世界中すべての人から許されず憎まれても、兄弟(妹)だけはお互いを必要とする。
 妓夫太郎と堕姫の話を通して、兄弟(妹)はそういうものだと語られる。

(引用元「鬼滅の刃」19巻 吾峠呼世晴 集英社)

「兄の定義」は、「鬼滅の刃」という物語において恐らく最も上位に位置する強力なルールだ(「姉」も若干被る部分はあるが、「兄」ほど強力な力と明確な機能は持っていない。「進撃の巨人」において母親と父親がまったく違うように、「鬼滅の刃」の「兄」は特別である)

 しかし「鬼滅の刃」には、この「兄能力」を持たない兄が一人だけ出てくる。

(引用元「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)


◆「兄能力」を持たないものは「兄」ではない。

「鬼滅の刃」における「兄」は、血縁の意味しか持たない名称ではない。「強い意思を持って弟妹を守るもの」という存在の定義がある。称号に近い。
「弟(妹)を守れないもの」は兄ではない。だから兄を降ろされる。

 縁壱の才能に気付いた巌勝は「縁壱が跡取りになり、自分は寺に行かされる」と考える。

(引用元「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)
兄上のこの顔めっちゃ好き。

 物語における装飾を取り払えば、これは巌勝が「自分が『兄』ではないこと」に気付いたシーンだ。     

 前回の記事で、巌勝がなぜ自分を慕う縁壱の言葉がわからないのかわからない、と書いた。だが「巌勝が自分が『兄の能力』を持っていないと気付いた」ことを前提にすればわかる。
というよりも、「兄上だと思ってこの笛を大事にする」と語る縁壱に対して巌勝が「気味が悪い」と感じるシーンは、この前提があって初めて意味が通る。
 巌勝が縁壱にあげた笛は、「兄」を呼ぶためのものだ。

(引用元「鬼滅の刃」21巻 吾峠呼世晴 集英社)

 だが巌勝は「兄能力」を持たないため、縁壱が笛を吹いても「兄」は助けに来ない。 
 巌勝は「兄」ではないため、縁壱を助けに行くことができないからだ。(行く必要がない)
 巌勝が縁壱の「兄」ではなくなった時点で、「兄を呼ぶ力があるはずだった笛」は「がらくた」になってしまった。 
 巌勝がかつて自分があげた笛ががらくたと感じ、そのがらくたを大事に思う縁壱が気味悪く思うのは、巌勝が自分のアイデンティティである「兄」を喪失したことを表している

◆巌勝にとって「兄」は自分そのもの

 次に巌勝が鬼狩りになった縁壱と再会したシーンだ。
 前回の記事では「縁壱になりたい」と言う割には、なぜ「人格」を外すのかと指摘した。これは単純に意地悪である。スマン(なんか巌勝には意地悪を言いたくなるのだ)
「兄設定」を鑑みれば、字義通り「縁壱になりたい」わけではなく縁壱が持つ「兄能力」が欲しいのだと分かる。

(引用元「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)
ここで巌勝が言う「強さと剣技」とは「弟がピンチの時は必ず駆けつけ助ける『兄能力』」のことである。

 なぜこれほど巌勝は「兄」でいたがるのか。
 巌勝は「兄であること」に強烈にアイデンティファイしているからだ。
 作中では「兄であること」は「一番の侍になること」と装飾されている。「最強の侍」である縁壱がわざわざ巌勝に向かって「この国で二番目の侍になる(弟でいたい)」と言っていることを考えれば、「一番の侍=兄」と読み替えられる……というより、ほぼ同じものを意味するとわかる。

「この国で一番の侍=縁壱の兄であること」が、巌勝という人物そのものなのだ。
 自分よりも剣の才がなかろうが(自分を助ける力がなかろうが)鬼になろうが、縁壱が巌勝を「兄上」と呼び続けるのは、巌勝の存在を尊重しているからだ。
 巌勝が「兄」でいるために、縁壱は「巌勝の弟」で居続ける。例え「兄能力」を持つのが自分であってもだ。

 この二人の関係は、他の兄弟(妹)キャラと比べると、兄弟の内実が転倒している。
 縁壱のほうが物理的にも精神的にも強く、いつも兄を気遣っている。
 痣の設定を見てもわかるが、「兄能力を持つ者」だけが作内ルールを超越する可能性を持つ。
「兄能力」を持つ縁壱は、「鬼と人間は相容れない」というルールを乗り越えて黒死牟を「兄上」と呼び、兄弟の絆を維持することが出来る。
 作内ルールを超えて、本来は「弟」である巌勝を「兄」にし続けることができるのだ。


◆作内で最も強いルールに、納得せずに抗っているところが好き。

「鬼滅の刃」は明示・暗示問わず色々なルールで縛られている。
 中でも「鬼と人間」の関係性、時を超えて来世まで続く(兄弟の)絆はこの話で最も強力なルールのひとつである。
 巌勝が不憫なのは、この話で最も尊いはずのものをただ一人抑圧と感じ、抗っているからだ。

「いい兄貴」をやる気満々だったのに、「その能力がありませんよ」となれば

(引用元「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)

こんな顔にもなる。
 能力がないなら諦めればいい、というわけにはいかない。「兄」であることは巌勝にとっては「自分自身そのもの」だからだ。
 巌勝は自分自身(兄)であり続けるために、家を捨て、妻子を捨て、人間であることを捨て、子孫を斬り捨て、侍であることも捨てた。
 しかし縁壱の「兄能力」(日の呼吸)は、縁壱と同じように妹が鬼になってもなおも「兄」でい続ける炭治郎に受け継がれる。

「何故私は何も残せない。何故私は何者にもなれない。何故私とお前はこれ程違う。私は一体、何のために生まれてきたのだ、教えてくれ、縁壱」
 巌勝は消滅する直前に、こう縁壱に尋ねる。
 巌勝は「弟にあげた笛」を残した。
「弟にあげた笛」が存在するということは、巌勝は「縁壱の兄」だった。
 残したのがその笛のみだということは、巌勝は「縁壱の兄になるために生まれてきた」のだ。
「なぜ私とお前はこれ程違う」かは当たり前である。
 巌勝は「兄」で縁壱は「弟」だからだ。「鬼滅の刃」の世界では、兄と弟(妹)は明確に区別される。

「鬼滅の刃」の世界では、「兄能力」のあるものが「兄」である。
「兄能力」は、作内ルールの最も上位に位置し、「理」をねじ曲げられる。
 巌勝が縁壱がいることで「狂う」と感じていた「理」はこれである。
「兄能力」を持つ縁壱が「兄上」と呼び続けることで、「兄能力」がないはずの自分が「兄上」になってしまっていることだ。

 巌勝は、この「狂った理」に三百年抗い続けた。
 ここまでしてやっと、縁壱の「兄能力」による(狂った)理の中で自分が「兄」であることを受け入れて「兄」になれた。

 物語世界では悪役になるとしても、自分一人の空回りで結論は変わらないとしても、三百年周りに散々迷惑をかけたとしても、納得がいかないことにはとことん抗い続ける。
 自分が兄上をこれほど好きな理由は、ここなのだと思う。
 たぶん縁壱も同じ理由で兄上が好きなんだと思うんだけどな。どうなんだろ。

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