「犬どもの生活」が完結したので感想。

カクヨムで連載している「犬どもの生活」が終わった。

毎日、楽しみに読んでいたので感想を書きたい。(*全部、自分の個人的な解釈です。ネタバレ注意)

「犬どもの生活」は、前二作(「妹売り」「兄貴の本命」)から続けて読んだほうが何倍も楽しめる。もし読んでみようかな、という人がいたら前二作から読むことをオススメしたい。

この三作は登場人物もストーリーも切り替わっているが、自分はひとつの物語だと考えている。

ひとつの物事を、ストーリーの進行によってではなく、見る角度の違いや解像度の上げ下げやルート分岐によって描いている。

「妹売り」「兄貴の本命」「犬どもの生活」はすべて、受け入れて欲しい絶対的な存在(以後「神さま」)と受け入れられたい人(以後「信徒」)の話だ。

・「妹売り」ー神さま(レイジ)・信徒(ルイ)
・「兄貴の本命」ー神さま(実秋)・信徒(夏来)
・「犬どもの生活」ー神さま(もも乃)・信徒(奥谷)

「神さまと信徒」の関係がどうなっているか、どういう条件が加わったらどういう結末で終わるのか、ということを様々な角度から見せている。

このシリーズ(勝手な推測)において、「神さまと信徒」は容易に近づくことが出来ない。
「妹売り」の世界では、「兄は妹を犯す者」という法則があるために、兄であるレイジは妹のルイには近づけない。ルイを愛しているからこそ距離を取り、触れないようにしている。
「兄貴の本命」は、夏来が「弟」であるために、実秋は夏来に近づくことが出来た。「兄は妹に近づけば犯してしまう法則」が「弟」が対象でも機能しているが、実秋は夏来を愛していない(これは分からないが一応)ために近づき犯す。

神さまと信徒が異性同士である場合、性的な接触は出来ないというルールがあるのではないかと思う。
だから「性的な接触」が出来るルートでは、神と信徒は「男同士」になる。

元型の物語においていくつかルールがあり、それに抵触しない条件でルートを構築するために設定や登場人物が変わるのではないか、というのが今のところの考えだ。

「犬どもの生活」は神さまであるもも乃が語り手であるため、前二作の神さま・レイジと実秋が何を考えていたがを補完できる。

「犬どもの生活」単体では、奥谷ともも乃は最初から両想いだった、ということが自分の感想の根底にある。
奥谷はもも乃の母親が好きだからもも乃を引き取ったのではない。もも乃が好きだからもも乃を引き取ったのだ。もも乃も出会ったときから奥谷が好きだった。
なぜ、両想いの二人がすんなりくっつかないのか。
「神さまと信徒が異性同士である場合、性的な接触は出来ない」というルールがあるためだ。
奥谷はもも乃と接触できないから、茜や透と性的な接触をする。時系列が転倒しているが、奥谷が茜を犬にしていたのはもも乃の犬になれなかったためだ。

茜が奥谷の犬だった、ということだけを以て、もも乃が「奥谷は女性とは関係が持てない」と確信を持っているのは何故か。
もも乃が「奥谷は女性とは関係が持てない」と確信を持つエピソードが、省略されているのではないか。(後に出てくる余談参照)
この事実にこだわりを持つことが、もも乃の奥谷への思いを表している。

物語の深層では茜と透は同一人物である。
だから奥谷に透が襲われているのを見たとき、もも乃は茜の名前を叫ぶのだ。
最初、この二人が何故分かれているのか、(物語上、茜が死ぬ必然性があったのかが)不思議だった。
茜が死んで透が現れるならば、最初から茜一人でいいではないか、と思っていた。
しかしこれは分離する必要があったのだ。

茜と透をなぜ分離する必要があったのかを話す前に、もう一人比較する人物がいる。
「兄貴の本命」の要である。
茜、透、要は全員同じ人物である。

要は夏来を好きになったが、茜と透はもも乃を好きにはならなかった。
これは何故か。
茜や透がもも乃を好きになると、もも乃とくっつかざるえないからだ。

逆の言い方をすれば、「もも乃と茜や透がくっついてはいけない、という結論(ルール)があるために、茜や透はもも乃を好きにならないのだ」
大事なのは、茜や透がもも乃を好きかどうかではない。それは物語に余り関係がない。
「兄貴の本命」では、要は夏来を好きになり肉体関係を持ったが、結局はくっつかなかった。

もも乃(夏来)は茜や透(要)とはくっつくことが出来ない。
このルールが重要なのであり、茜や透がもも乃に恋愛感情を持っていないのは後付けの理由だ。
なぜ、くっつくことが出来ないのか。
もも乃(神さま)は本当は奥谷(信徒)が好きだからだ。

自分は透は、ある程度はもも乃が好きだった(恋愛感情があった)のではないかと思っている。(要に近い存在)
恐らく茜との分岐はここで、茜は「奥谷の犬」としての要素が強い存在であり、透は「もも乃を大切に思う」要素が強い存在なのではないか。

「犬どもの生活」を見ると、神さま側の事情がほの見えて面白い。彼らは信徒を支配しているように見えて、「支配していることを以て」支配されている。
「妹売り」のレイジが何を考えていたのか、「兄貴の本命」でなぜ実秋は唐突に消えたのかもそれぞれの作品だけだと手がかりがほぼないが、神さま側の視点である「犬どもの生活」を見るとある程度、推測出来るようになっている。

「犬どもの生活」における茜の死と、「兄貴の本命」における夏来と要の二度目の接触は神さまにとっては同じ意味を持つ。
だからもも乃も実秋も信徒を置き去りにして姿を消したのではないか。

彼らは信徒をつなぐ鎖を手に持つことで、信徒につながれている。
実秋は要を失った衝撃で、その鎖を離すことが出来た。
しかしもも乃は茜を失った衝撃で手放しかけた鎖を、透=茜が戻って来たことで手放す機会を逸してしまった。

要、茜、透は神さまと信徒の関係に何とか介入しようとするが、ほとんどその力を持たない。
「優しい」と何度も言及される彼らはとても無力であり、ルイから忌避されていた「妹売り」のミンジュのみが二人の関係に関与する力がある、というところも示唆的に感じる。

「神さまシリーズ」は大きな一枚のパズルの、それぞれのピースではないか。ピースひとつひとつを見てもそれが何であるかよくわからないが、組み合わせて行くと初めて大きな一枚の絵が見えてくる。

確信犯的にやっているのか、もしくはこだわりが強いテーマだから自然とこうなっているのかはわからない。
ただ、後者であれば設定が表向きの設定が被りそうなものなのに(新海誠作品のように)ほぼかぶっていない。

確信犯……だとすると怖い。怖いがシリーズが続いて欲しいと思う気持ちが強い。

どちらにしろ一作だけ読むよりも、三作でまとめて読んだほうが何倍も面白くなることは確かだとも思う。

今日さっそく新作が始まったが、設定がほぼかぶっていない上に(女衒と女郎という設定が、若干「妹売り」を彷彿させるくらいで)タイトルの段階で登場人物が大幅に増えている。
「シリーズの四作目」なのだろうが。
第一話の段階だとちょっと心惹かれるものがないなあという感じだが、「犬どもの生活」も最初はそうで、結果的には三作の中で一番面白かったので余り先入観を持たずに読もうと思う。

「兄貴の本命」は途中まで無茶苦茶面白かったのに、なぜあんなに尻切れトンボで終わったのか。(未だに謎だ)神さま(実秋)が失踪してしまうと、世界が終わるということなのだろうか。

一作目の「妹売り」が自分から見るとまあまあ理想的な終わり方だったので(神さまのことを理解しつつ、その世界から出て行く)あとはひたすらバッドエンドを積み重ねていくのか。

「犬どもの生活」を読むと、「鎖」でつながれている限りは二人で一緒にいても結ばれた(?)ことにはならないと思うのだ。
「鎖」は「その人しかいないから」という「執着的な愛(?)」だと思うので、

・「鎖」を断ち切りつつ、二人が自分の意思で相手を選択する。

個人的にはこれがベストエンドだと思うが、どうなんだろう。
それはあなたにとってのベストですよね? と言われれば「それもそうだな」と言うしかないけど。


*余談

「もも乃の本当の父親が奥谷」だから、もも乃と奥谷は結ばれない。それを隠す言葉が「奥谷は女性と関係が持てない」なのかなとも考えたが、その場合「奥谷がもも乃の父親である→母親のゆき乃と関係が持てた」ことと矛盾してしまう。
「奥谷は女性と関係が持てない」は、「犬どもの生活」においてかなり重要なルールなので、何の伏線もなしに「それが嘘でした」ということはありえない。(ルールの信用性がなくなる)

だからないかな、とは思うが、一方で「犬どもの生活」単作で考えても一番辻褄が合うし、前二作が兄弟(血縁)が神ー信徒の関係であったことともつながりが出てくるので、そうかなとも思える。
何よりその場合、父娘でありながら、その関係が最後までわからないところに退廃的な救いのなさがある。
美里さんの作品全般に漂う不健康さ(誉め言葉)が一段と増すので、捨てがたい。

こういうことが色々と考えられるところが、一連の作品の一番の魅力だ。

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