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「君が獣になる前に」全8巻感想。結末にがっくりきたが、それでもこの話が持つ可能性が好きだった。

*ネタバレ注意。

次巻で「琴音の他にももう一人獣が」みたいな予告があったが、嫌な予感しかしない。(略)
「何が何でも琴音を追い詰めて、必ずテロを起こすように仕向ける黒幕」という都合のいい存在に、「悪」と「負の感情」を全部押し付けて、めでたしめでたしとかじゃないよな?

 7巻を読んだ時点での予感的中、どころか予想の十倍ひどかった。
 
まさかあんなモブに毛が生えた程度のキャラに突貫工事で背景をくっつけて、「誰の中にでも獣はいる」みたいなこれまで三百回くらい聞かされた一般論にまとめて終わりになるとは……。

 目の前で大勢の人間がもがき苦しみながら死んでいく様を見ていられるのは、「世界を壊したい波が来るかこないか」ではなく「とっくに一線を超えている人間の所業」だ。
「脅された」という理由で出来ることとは思えない。

 ストーリー上さほど必要がないのに、さらわれたマネジャーの女性に対するリョ〇シーンが出てきたり、神崎が無抵抗の玄奘を金づちでぶん殴ったり、本来は友情に厚く家族思いのカンナが、二回目のループで「自分だけ女と幸せになってムカついたから」という理由で躊躇いもなく神崎を撃ち殺したりしたように、この話では登場人物のキャラの性質や脈絡に関係なく、唐突に悪性=獣が噴出する。
 法律や倫理や善悪、理性、そういう「社会性」で縛りつけている獣は、ちょっとでもほころびを見つけると、そこを食い破って出てくる。
 それが「どこでどの人間に出るか」は結果論でしかない。
「獣」は人であれば、誰しも持っているものだからだ。

 この話が凄いと思ったのは、社会(物語)の奥底には獣が眠っており、それは全ての人間(キャラ)が共有しているものだという構図を描いているからだ。
「悪」が「個人」によって区切られるのは、「社会(文明)」という構図の中でだ。
 社会と対比される「非社会」においては、個人という枠組みがそもそもない。「非社会」の存在である「獣」は、人間全体が共有しているものだ。

「個人」という概念がなく、人間全体が共有しているものとは何なのか。
 ユングがいう「集合的無意識のようなもの」というしかないけれど、村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」で描こうとしたり、新海誠が「すずめの戸締まり」で表現しようとしたのはたぶんこれだと思う。(*「すずめの戸締まり」では、「悪」ではなく「力そのもの」だったけれど)

 うまく説明が出来ないなと思っているところに、先日たまたま「暗黒舞踏」の「山海塾」の動画を見た。
 見た瞬間に「これだ」と思った。

*サムネを見て「苦手そう」と思った人は閲覧注意。

 人は社会においては「個人」だけれど、そうではない世界(非社会)では「何か巨大で理解しがたいものの一部」だ。
「暗黒舞踏」を見ると、自分の中の「社会性という殻を持たない、人あらざる部分」がざわつく。
「社会の中で人間」である自分は、自分の内部の人あらざる部分に対して嫌悪と恐怖を感じる。(こんな凄いものがあったとは。世の中、まだまだ知らないものがいっぱいあるな)

「社会=理性=人間=個人」という枠組みとは別に、人間は「社会外=理不尽さ=獣=人間外の一部」を持っている。
 それはいくら社会の規範で「正しくない」「醜い」と言っても消えることはない。消えることはないからこそ、社会という枠組みで抑えつける必要があるのだ。

 社会を食い破る悪、大勢の人間の尊厳を粉々に砕く悪は「個人」のものではない。(たまたま個人が体現するとしても)
 その力が働けば、人は個人としての個別性を失いその一部になってしまう。(戦時下が一番わかりやすいけれど)

 社会性(個人)をはぎとられて、「悪」という怪物の一部になってしまいそうになったらどうすればいいのか。
「君が獣になる前に」は、そういう話だと思ったのだ。
「悪」を「個人の逆恨み」に集約した時点で、期待しすぎだったとわかったけど。
 そもそも「言葉」は社会を前提とした道具だから、言葉で社会外の概念である「獣」を語るのは無理で、暗黒舞踏のように身体性で語るしかないのかもしれない。

 期待が大きかったぶん結末に対する落胆が凄かったけれど、それでもこの話の奥底に脈々と流れる悪性のエネルギーには強く惹かれた。
 創作としては出来がいいとは思えないし、おススメかと言われればおススメではないけれど、↑に書いたようなことに興味がある人には読んで欲しい。

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