義時は「お前、マジでクソ野郎だな」とツッコミを入れて欲しいんだと思うんだ。

上記の「鎌倉殿の13人」のりくの話の続き。

「鎌倉殿の13人」は色々な要素を含んだ話だが、その中のひとつに「鎌倉」という強力な磁場によって、中にいる人間が狂っていくホラー要素がある。

大泉洋がインタビューで

三谷さんは喜劇の脚本家だと思われているだろうし、実際そうなわけですけど、僕としては実はものすごく怖い話を書かれる人だと思うんですよね。(略)そんな三谷さんの描く怖い部分というのは今回の「鎌倉殿の13人」でよく出ていたんじゃないかなと。前回出演させていただいた「真田丸」(2016年)よりは確実に怖かったですね。戦国時代よりさらに前の時代の話だからかもしれないけど、中盤からは特に「怖い脚本だな」と思って見ていました。

こう語っているがまさに言い得て妙だと思う。
自分も「鎌倉殿の13人」の面白さは「怖さ」だと思っている。

鎌倉という場所そのものが悪意を持った生物でもあるかのように、その場にいる人を少しずつ歪ませていく。
では、人々を狂わせる「鎌倉という生物」は、突然変異で生まれたのか。
そうではなく、「鎌倉」はいいところも悪いところもあるこういった愛すべき人物たちの集合体なのだ。
彼らは「鎌倉」というものに狂わされていると同時に、「鎌倉」として人を狂わせる存在でもある。

こういうある一定の環境が磁場になって、中にいる人間を狂わせていく「シチュエーションホラー」要素が凄く好きだ。

「こういう状況によって中にいる人がみんな狂っていく」場合、人は「可視化出来る具体的な悪」を見つけようとする。「悪」が見えていないと怖いので、眼に見えるものを求めるのだ。

「悪=力」がその磁場を作る求心力になっているので、害があってもその「場(鎌倉)」を守るためには必要なものだ。
誰かしらが「悪の集積地帯」「可視化できる悪」にならなければならなくなる。

頼朝が生きている時は、「鎌倉の内部の悪(力)」は頼朝だった。
頼朝の強みは、生まれながらの「貴種」であるため、「悪」であることに大きな罪悪感を感じないところだ。
自分は「鎌倉殿」の頼朝は、本当の意味では他人に関心のない人だろうと思っている。だから非情になれるし鈍感になれる。

頼朝が死んだ後、事あるごとに「頼朝さまならこうした」と口にするのを見てもわかる通り、義時は意識的にその役割を引き受けようとした。
誰かが「目に見える悪(力)」にならなければ、人がまとまる磁場は生まれない。
そういうことを頼朝から学んだからだ。

だが、義時は頼朝とは違う。
義時も自分は頼朝のようにはなれない、とわかっている。
だから、頼朝が死んだ後に逃げ出そうとした。しかし政子に「逃げるのは卑怯だ」と引き留められてしまった。

「鎌倉殿」の義時が好きな理由はたくさんあるが、こういう自分のことを誰よりもよくわかっているところ、それでもなお背負った責任を限界まで果たそうとする生真面目さがいいなと思う。

「自分は権力維持のためならかつての仲間はおろか子供さえ殺す、冷酷で卑劣な人間だ」と誰よりも義時自身が分かっていて、自分を責めている。
「お前、マジでクソ野郎だな」と誰かに突っ込んで欲しい。
突っ込まれると言うことは、「お前のやっていることをちゃんと見ている。お前がそういう人間だとわかっている」ということだからだ。

それなのに誰もツッコミを入れてくれない。
どころか、自分が比企や父親である時政にツッコミを入れなくてはならない。
そして「ツッコミを入れる側」になることで、周りからは「正しい」と思われ何も言われなくなってしまう。
独裁者が出来上がる過程そのものだが、自分が心の底から正しいと思っている独裁者とは違い、義時は自分が「クソ野郎だ」とわかっている。
「自分が悪であること」に凄く自覚的なのだ。(←こういうキャラ大好き)

政子はある意味、義時と共犯者である。だから一幡や時政を助けて欲しいと言えても、「義時のやっていることは間違っている、おかしい」とは言えない。
それを言うためには、政子は鎌倉に引き留めることで義時に「その場の悪性」を引き受けさせた、自分自身と向き合わなければいけない。
しかし、「今の鎌倉」は義時と政子の「暗黙の共犯関係」の上に成り立っているので、政子がそれを認めることは鎌倉を崩壊させることにつながる。だから出来ない。
泰時はツッコミ役としては、まだまったく機能していない。
「なぜ、義時がこうせざるえないのか」ということを理解したうえで、「それでも間違っている」と思わなければ、ツッコミにならないからだ。
物語内でも泰時の妻・初の口を通して「泰時は、まだ何もわかっていない」ということを明示している。

義時は、泰時に自分に対するツッコミをしたうえで、自分のようにならないことを期待している。
息子にツッコミをして欲しいと期待するのもどうなんだと思わないこともないが、それくらい義時は苦しいのだと思う。
頼朝のように「悪」に対してよく言えば気にしない、悪く言えば鈍感な性格なら良かったが、義時はそうではない。
自分の悪性が誰よりもわかっている。これを誰にもわかってもらえない、誰とも分け合えないのはとても苦しい。

りくは義時にとって「何もかもこいつのせいだ」と躊躇いなく思える、「自分以外で悪役に出来る唯一の人間」だったのだと思う。

ブログ記事で書いた通り、自分は義時がりくを殺そうとしたのは憎悪からだと思っている。
「りくが時政を再びそそのかさないように」という理由なら、時政とりく、両方殺すはずだからだ。鎌倉のためならば一幡さえ暗殺したことを考えると、時政を殺さない理由がない。

ただ理由が何にせよ、義時がりくだけを(時政も一緒ならともかく)殺そうとするのはフェアではない。
義時はフェアさという建前をかなぐり捨てて、りくを全力で殺しにかかっている。

なぜ義時がそんなにりくを憎んでいるのかと言うと、「りくが時政を操った」と思ったからではないと思う。
義時は自分の父親が、りくの話を鵜呑みにするほど愚かだとは思っていない。
自分が「優しく気のいい父親」以外の時政を、認めようとしなかったことを悟らされたからだ。(→だから反面教師として、泰時には「自分の全てを見ていろ」と言っていると考えると胸アツだ)
元を正せば、自分自身に対する怒りなのだ。だからあれほど冷酷で容赦のない殺意になる。

りくはたぶん、こういう構図が全部分かった上で(だからツッコミとして機能する)「お前、自分への怒りを誤魔化すために殺すだなんてだいぶクソだな。だがまあ、私も大概クソだからええわ。お前はこれからも立派なクソとしてやっていけ」と言っているのだ。

「その場の悪の集積場」になっていて自分の悪性に自覚的な人間にとって「自分がいかにクソか」ということをツッコミもされず放置されるのは、けっこうキツイことだ。(*自覚的ではない人間にやると大変なことになる。義時のような人間は稀である。)

りくの対応は、義時にとって救いだったと思う。
少なくとも泰時が立派なツッコミ役になるまでのつなぎにはなったんじゃないかな。


ちょっと横。


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