翻訳作品における訳者同士の解釈違いの面白さについて。
先日、五年前に書いた記事がハテブにホッテントリ入りした。
「蠅の王」に興味を持った人が、X(旧Twitter)で紹介してくれたのがきっかけのようだ(ありがとうございます!)
記事を読んでくれたことをきっかけに、「読んでみようかな」「新訳が出たの知らんかった。久し振りに読んでみるか」という人が少しでもいてくれたら嬉しい。
「蠅の王」は、自分が影響を受けた小説10冊に入る本で、これまでも隙あらば「どこが好きか」「どう影響を受けたか」について書いている。
そのうちまた語りたい。
それ自体はありがたかったのだが、いまちょうど「シャーロック・ホームズの冒険」を原文で読んで、原文と訳文から受ける印象の違いについて考えていたところだったのでビビった。
普段は「偶然の出来事に、結び付きを見出して因果があるように思い込むことってあるあるだよな~」と思っているが、そんな自分も「これがシンクロニシティか」とちょっと震えた。
「風が吹けば桶屋が儲かる」の如く、もしかしたらネットの世界を神様視点で見れば巡り巡って何かでつながっているのかもしれない。
記事を読んでもらったことをきっかけに、合わせて紹介している「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」のことを久しぶりに思い出した。
「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」の中で村上春樹が、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」で「主人公ホールデンの妹フィービーが、ホールデンに『兄さん』と呼びかけるのは考えられない」という話をしている。
村上春樹は、「キャッチャー」は「思春期の少年が社会と対峙する物語」ではなく、自己確立の物語……さらに言うとサリンジャーにとっては戦争によって傷ついた自己回復の回路の意味合いもあったのではないかと考えている。
「ライ麦畑でつかまえて」の邦題で有名な野崎孝の訳では、フィービーはホールデンに「兄さん」と呼びかけている。
このことについてはこう語っている。
サリンジャーが苦しんだ戦争の後遺症も、今ではPTSDという言葉を通して専門家ではない人間でもその概念を形として理解ができる。
だが野崎訳が出たころには、文学の中に自己回復療法的な背景を一般の読み手が見出すことは恐らく難しかった。
訳者としては自分が解釈しうる範囲で、広く一般の人に描かれていることを伝えるための一本の芯を物語に入れる時、「心理療法的なベース」は選びづらかったということかなと思った。
いま大河ドラマになっている「源氏物語」もそうだが、同じ内容でも「どう読まれるか」は、時代によってかなり変わる。
村上春樹は訳すにあたって自分の小説の英語圏の翻訳者に意見を聞いているが、ここでも意見が分かれることがあった。
その話が面白い。
ここは何度読んでも笑う。
「翻訳夜話2」の対談相手である柴田元幸も、冒頭のこの箇所は「訳文にははっきりと怒りが出るべきだ、というのが彼(ルービン)の意見の要点で、僕もまったくその通りだと思います」(P48)と語っている。
翻訳の専門家二人がそう言っているのに、自説を譲らない村上春樹は凄い。
解釈違いの人同士の会話は、端で聞いているぶんには面白いなと思う。
ただ自分も野崎訳を読む限りは、ホールデンは怒っているというよりは、色々なことにうんざりしていて「暇なら聞いていく?」くらいの感じだと思っていた。
If you really want to hear about it も直訳の「もし君が本当にこのことについて聞きたいならさ」だと皮肉とユーモアが混じって茶化している感じなのかなと思っていたので、「怒っていることが重要」というのは意外だ。
自分は「ライ麦畑でつかまえて」でこの話を好きになったので、冒頭はやっぱり「もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならだな」で始まって欲しい。
野崎訳のホールデンは、ネットミームのいわゆる「すっごい早口で喋ってそうw」で、そこが好きなのだ。
自分の解釈は解釈として、自分の好きな作品について人の考えを聞くのは楽しい。
物語そのものと同時に翻訳家の試行錯誤や解釈も楽しめるところも、翻訳モノのいいところだと思うのだ。