映画「ちょっと思い出しただけ」の感想を書いたが、自分が感じたこととズレていたのでもう一度考えてみた。

読み返したら、自分の感じたこととズレていると思ったので、もう一度考えてみた。

この映画を見た感想は、他人の惚気話を聞かされているだ。
「恋愛映画を見た」という感覚ではない。

六年付き合った彼氏(彼女)がいたんだけど、色々あって別れちゃったんだ。今は結婚して子供も出来て幸せだけど、彼の誕生日になると「ああ好きだったなあ」「あの時、結婚していたらどうだったろう」って思い出すんだよね。

こう聞かされた時の反応は、「そうか、色々あったんだね」だ。
この映画の感想もこれなのだ。
「そうか、色々あったんだな」

この映画は「恋愛映画」ではなく、「輝雄×葉の惚気話」なのだ。
一般的な恋愛映画のように、共感するしない、萌える萌えないで見るものではない。
表層的には「君が君で君だ」のぶっ飛び設定から、一転して「普通の話」になったように見えたが、そんなことはなかった。
二作とも「多数の萌えや共感」を呼び起こす恋愛テンプレートを用いて多くの人に楽しんでもらう話ではなく、「ごくごく個人的な恋愛」について、対面で聞かされる話だ。

他人の惚気話も聞いていて面白いことはあるし、共感できる部分もある。
だがそもそもが他人事だ。あと惚気で二時間は長い。


「君が君で君だ」には「わかる!」となり、「ちょっと思い出しただけ」にはまったくピンとこず、「他人の惚気を延々と聞かされている」という感覚に陥ったのは、自己完結する「信仰型恋愛」のほうが好きだからだと思う。

*「信仰型恋愛」とは、相手の反応に関心がなく、ひたすら自分の想いの発露のみに熱心な恋愛のこと。

「君が君で君だ」や「ワンダと巨像」「おばみつ」など、「相手の見えないところで自分が勝手に何かをして、相手が幸せでいることを想像することが幸せ」という恋愛に、共感……というより自己投影しがちだ。
「容疑者Xの献身」も好きだ。
最後に靖子に「一緒に罪を償います」と言われた時の石神の絶望と救いに無茶苦茶感情移入してしまう。
「手紙、出すんかい」という突っ込みと「出しちゃうよなあ、わかる」が同時に来る。
「ワンダと巨像」のワンダも、「モノに会えなくてもいい」と思っていたはずなのに、いざ起きるとどうしてもひと目会いたくなるところが凄くわかる。いいよなあ。

「君が君で君だ」と「ちょっと思い出しただけ」の感想が大きく違ったのは、「ワンダと巨像」には感情移入しまくったのに、「ICO」には他人の新婚旅行に後ろからついていっているような落ち着かなさを感じたのと同じかもしれない、と考えたら納得出来た。

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