「少女漫画の恋愛モノ」と「少年(青年)漫画のバトルモノ」は、だいたい同じことをしているのではないか。
◆バトルモノにおいて、「戦う(殺し合う)」ことは究極のコミュニケーションである。
少し前から「少女漫画における恋愛」と「少年漫画におけるバトル」は、根本は同じことを違う角度から見せているのではないか、と思うようになった。
どちらも「一対一の対峙→コミュニケーション」を通して、(結果的に)自己認識を目指している。
最近だと「ゴールデンカムイ」の尾形とヴァシリの関係が、この構図だった。
尾形とヴァシリは、会った瞬間から、戦いを通してお互いの性格すら正確に読み合う。
尾形とヴァシリは戦いにおいて、「俺だったら」「私だったら」という言葉を何度か口にする。
会った瞬間から、二人はお互いに、「相手は自分と同じ思考を持つ、同じ種類の人間だ」だと察し、そこに一片の疑問も持たない。
尾形とヴァシリは、誰よりも深く理解し合えるからこそ、対等に全力で殺し合う。
相手を倒すためには、相手の思考を知らなければならない。
相手の思考を知るためには、相手の性格(思考や認識の癖)を推測しなければならない。
「相手の性格をどう推測するか(認識するか)」ということを以て、自分がどういう人間かということがおのずと明らかになる。
相手を知ることが、自分自身を知ることなのだ。
「全力で戦う(殺し合う)」ことは、究極のコミュニケーションであるという発想は、バトルをメインとした少年(青年)漫画では頻繁に出てくる。
「バカボンド」の伝七郎編では、この点を明示している。
一年の間に大きく力量に差がついた伝七郎に対して、武蔵は「お前とはもう分かり合えない」(25巻)と感じる。
武蔵はこの時、既に「分かり合える相手」である小次郎のことを考えている。
「ヒカルの碁」では、「神の一手が生まれるためには、対等な力量を持つ人間が、必ず二人必要だ」と語られる。
佐為は自分と対等な力量を持つ、行洋と戦うことで自分という存在を感じることが出来た。
そんな自分の上を行く、神の一手にさらに近い手を思いついたヒカルをがいたことで、「自分が何のために千年の時を永らえたか」→自分が何者であるかを悟る。
◆「戦い(バトル)」「恋愛」は、自己認識に至るための「他者との究極のコミュニケーション」の描き方の違いに過ぎない。
「対等な能力で戦える者こそ自分の理解者であり、だからこそ戦いによってのみ自己を実現できる」
「そして自己実現した瞬間に、自分が何者であるか悟ることが出来る(自己認識)」
この構図は、戦いと恋愛ではほぼ同じだ。
というよりは、本来は同じ構図を持つものを、違う角度から見せることで「戦い」と「恋愛」に分けているに過ぎない。
この構図を正確に浮かび上がらせようとすればするほど、「戦い」と「恋愛」の境目は不鮮明になっていく。
例えば「ベルセルク」のガッツとグリフィスの関係は、
・ガッツに対してグリフィスが「お前は俺のものだ」と言う。
・ガッツに去られた後、グリフィスは夢のことを忘れるほど自暴自棄になる。(「お前だけが俺に夢を忘れさせた」)
・シャルロットを夜這いした時、終始、ガッツのことを考えている。
など一般的には、「ライバル関係」よりも「恋愛」と考えられる文脈の言動が多い。
以前は性別による規範(物の見方)の違いから、女性がガッツとグリフィスの関係を恋愛と「誤認」しやすいのではないか、と考えていた。
だが上記の考えに基づくと、「お互いを全人的に理解し合うために対峙した時の構図」の中に、一般的には「戦い(殺し合い)」や「恋愛」に見えるものが含まれているだけではないか。
「お互いを理解できるのはお互いしかいない」という唯一絶対の関係性を全力で描いた場合、その関係の蚊帳の外にいる他人はその関係を、「殺し合い」や「恋愛」のような文脈でしか理解しようがないのかもしれない。
◆「『お互いを理解できるのはお互いしかいない』という唯一絶対の関係性」をその関係の外側の人間は、「殺し合い」や「恋愛」としか認識しようがない。
「『お互いを理解できるのはお互いしかいない』という唯一絶対の関係性」においては戦い・恋愛の両方の要素を含む(ように見える)。
一番わかりやすいのは、「ハンター×ハンター」のメルエムとコムギだ。
この二人の関係は、同じ能力を持つ運命の相手が一対一で対峙し、全力を尽くすことで、相手を理解することができ、相手を理解することで自分自身を知ることが出来る→その経路を辿って、人は自分の名前を知る(自分が何者で、何のために生まれたかを悟る)を、完璧な形で描いている。
グリフィスがゴッドハンドになった心情も、武蔵から「分かり合えない」と言われた伝七郎になることを全力で拒否しようとしている、と考えるとわかりやすい。
伝七郎は、自分は兄とは違う「その鈍臭さ」ゆえに父親や周りの人間に愛された、自分は「父(広義の他者)の名を守るために戦う男」であることを、武蔵と対峙する(殺し合う)ことで悟ることが出来た。
それが他の誰でもない吉岡伝七郎である、とわかることが出来たからこそ、武蔵に「最期の相手が貴様でよかった」と言って死ぬ。
だが武蔵は伝七郎の悟りを一顧だにせず「早く倒れろよ、勝ったのは俺だろ?」と言ったように、伝七郎は武蔵によって自分を悟ったが、武蔵は伝七郎によっては己を知ることが出来ない。(残酷)
グリフィスは伝七郎になることを拒否し、ガッツにガッツ自身を悟らせる存在であるため(あり続けるため)にゴッドハンドになったのだ。
人は、一般的には他者との相対でしか自分のことを認識することが出来ない。(*他人が存在しなければ、「銀と金」で兵頭会長に地下に閉じ込められた教授のように、「自分の名前も満足に言えない」→自分を認識できなくなってしまう)
普通は多くの他人から相対的な視点を受け取って、自己を認識する。
だが対峙した瞬間に自己を悟れる、そんな相手がいるかもしれない。バトルモノでいえば、「自分と同じ能力を持つがゆえに、どんな思考をするどんな人間がわかる相手」であり、恋愛でいえば「運命の赤い糸で結ばれている相手」だ。
「この人の前に立つ私が、本来の私だ」と体感した(させてくれる)相手が、戦いで言えば「終生のライバル」であり、恋愛で言えば「運命の相手」になる。
「バトル(殺し合い)モノ」と「恋愛モノ」は本質的には同じものを、便宜的に区切っているものだ。
だから「本質」である自己認識の構図を突き詰めると、その境目が融解していくのではないか。
◆「恋愛モノ」の一形態、「バトル型恋愛」は他の恋愛モノよりも、むしろ「バトルモノ」に近い。
上記にあげた「お互いを理解し合えることが瞬時に分かる→対峙することで自己認識する」構図を「バトル(殺し合い)モノ」と共有する恋愛を、仮に「バトル型恋愛」と名付ける。
創作の「恋愛」にはもう一種、相手の理解(認識)をまったく求めない型がある。仮に「信仰型恋愛」と名付ける。
自分の感覚だと「表面上のジャンルである恋愛」で同一にくくられがちな「バトル型恋愛」と「信仰型恋愛」よりも、「バトルモノ」と「バトル型恋愛」のほうがテーマやその方法論において近いように感じる。
◆余談1:「バトルモノ」と「バトル型恋愛」で近いと感じたもの。
「羆嵐」と「大蛇に嫁いだむすめ」は(自分の中では)似ている。
「穴持たず」と「大蛇さま」は、両方神に近い存在で、人間には理解しがたい存在だ。
猟師の銀四郎は「穴持たず」の思考を理解し対峙出来ることによって、人でありながら人から畏怖される者(人よりも神に近い者)として描かれている。
「大蛇に嫁いだ娘」は、大蛇に人間に理解できない部分があり、ミヨが「大蛇さまを理解したい、理解できない」の間で揺れ動く。
嫁に行った当初、ミヨが大蛇に「死んでくれないかな」と思うなど、ミヨから大蛇への畏怖や嫌悪、「二人が理解しあう困難さ」が描かれているところがよかった。
何より大蛇さまが滅茶苦茶可愛い。
◆余談2:「信仰型恋愛」について
「信仰型恋愛」の代表が、「鬼滅の刃」のおばみつ。
おばみつが何故「信仰型」なのかは↑で熱く語っているので、良ければ読んで欲しい。
「ワンダと巨像」は、モノがずっと寝ている(ほぼ反応なし)のため、「信仰型」であることがわかりやすい。
自分は「創作の恋愛モノ」なら「信仰型」が圧倒的に好きである。(創作なら)
他人の存在によって自己を相対化せず、一人でひたすら自己葛藤を続ける。
そういう「補陀落渡海」的な話が好きだ。
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