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機械学習と正しさ

webの世界は正しい事を言う人であふれている。
そしてその「正しさ」は驚くべき精度で進歩している。
その正しい世界で人々は、批判に晒されるたくさんの間違った投稿を目にすることで、AI(人工知能)における機械学習のように豆知識から難しい法律まで、その頻出度の高いものからどんどん脳に叩き込んでいる。

またニッチなジャンルほど最新のマナーマウントが繰り広げられる。
例えば、ジャンル「夏に犬の散歩」ならば、その散歩は早朝か夜でなければならない。日中、熱されたアスファルトの上を犬に歩かせることは言語道断だと糾弾されるのだ。それでも結果的には、足の裏を焼きたいと思ってる犬を除き、ほとんどの飼い犬にとって喜ばしい文化が醸成されるだけであり、それは人類にとってのアップデートともいえるだろう。

webの世界を飛び出て現実世界でその「正しさ」を行使する者たちも現れた。いわゆる「世直し系youtuber」である。
主に禁煙場所での喫煙、健常者の障害者専用マスへの駐車、チケット転売、痴漢をするものに突撃し、厳重注意や警察に引き渡す様子を撮影したものがwebコンテンツとなっているのだ。

私たちをとりまく「正しさ」について私たちが日常的に検証を重ねることを人工知能の機械学習となぞらえるのなら、それは機械学習3つの分類「教師あり学習」「教師なし学習」「強化学習」のどれにあたるのだろうか。

正解が決まっており、それから逸脱するものを排除する「教師あり学習」が近いように思える。

しかしながら人間における「正しさ」についての「教師あり学習」とは、不思議なことに「正しいデータ」すなわち「正しい行動」について人間は収集する気がないように思えるのである。つまり、他者が当たり前に行なっている「正しさ」について絶賛するような投稿を見たことがなく、完全にスルーしているのである。仮にそのような投稿があったとしてもそれがバズるとは到底考えられない。
また人は人生の成功者や権威ある先生から考え方や習慣を学ぶことを好み、そのように実践したりもするが、それは「正しさ」として要求される以上のことであり、ある意味では「正しいデータ」とはいえないだろう。

人間が「正しさ」から逸脱するエラーにだけ貪欲に食いつき、その反対の「正しいデータ」を無視する一方で、コンピューターは「エラー」と「正しいデータ」どちらのデータも摂取することで成長する。その意味では人間も人間として正しかったとき、それを「正しいデータ」として摂取すれば機械のように成長し続けることができるのではないだろうか。
思い返してみるに、自分で自分の「正しいデータ」を摂取していると考え得ることがあるとすれば、それは、広告戦略でしばしば目にする「自分へのご褒美」的なものではないだろうか。その意味で他者の日常を「正しいデータ」と讃え自分の糧にすることなどあっただろうか。

ないのである。
だから人は一年に一回だけ強制的に「母の日」「父の日」「敬老の日」などと制定したのではないだろうか。
たしかに「なんでもない日々への感謝」的なものを不意に摂取することはある。しかしそんな漠然とした感覚には「正しくない」エラーの100分の1もカロリーを感じない。

完成している私たちはエラーだけを探して排除したいのである。

そしてその残念な機械学習をしてしまう原因は、webの世界に現れる主な人間が生物的にも世間的にも立派な「大人」だと自負し、そう扱われているからだろう。「自分も間違えないから他者も間違えるべきではない」とか「自分も許容してもらえないのだから他人を許容すべきではない」そのようなことに神経を全振りしてしまっているのだ。

それでは「教師あり学習」の「正しいデータ」は人間にとって活用方法がないのかといえばそうではない。まだ完成していない子供にとってそれは有効に作用しているのではないだろうか。周りの環境が子供を作る的なことである。つまり人間の「正しいデータ」については目立ってwebに現れるようなことはないが、可視化されないそれを子供たちが四六時中、それこそエラーを貪り食う世直し系youtuberなんかが可愛く見えるくらいに貪欲に摂取しているのかもしれない。

一方で答えを必要としない「分類分け」クラスタリングを目的とする「教師なし学習」は人間の何にあたるのだろうか。これについて人々は学校や職場、政治的な思想において自分の居場所の選定に活用していそうだ。ただ、人間においては各々がどこのポジションにいけば最善かという自由意思のもとに動いた結果が分類されるため、機械学習でいうところの「強化学習」の要素が強く、「教師なし学習」は人間に正しく機能しないように思える。

最後の機械学習の分類三つ目、何か報酬を得るために最善であるよう学習する「強化学習」については、人間は多分にそのようにして生きている。わかりやすく富が増えるよう単純計算をする者、富ではない価値の定義を求める者。

人間は何かやらかしてしまった時に、それを「人間らしい」と言ったりするが、それはある種の冗談として扱われる。しかしそれは本当に冗談なのだろうか。それが真理だとして、私たちがそんな「人間らしさ」を認めずに、他者を精査し続けるのなら、しっかりと人工知能の機械学習を模倣すべきなのかもしれない。つまり何でもない日常もスルーせずに糧として成長し続けるということを。

以上は前置きであり、そもそもは私が2010年7月にmixiに書いた、ネットに漂う当時はまだ発展途上の正論についての短編を引っ張り出そうと試みたのだが、webが2.0から3へと大きく世界が変わった10年以上の歳月と私自身のつまらない成熟のせいで、このように遠回りした挙句、半分以上をカットすることとなった。


以下が本編である。


<中略>


予約した店が入るビルに面した通りには消防車が1台と3台の救急車が停車し、遠くからもサイレンを鳴らして何台かの救急車がこちらに向かってきていた。

「ここ入れないんですか?待ち合わせてるんですけど」

私は一番暇そうな警察官に聞いた。

「事件がありましたのでご協力を」

私がここまでの人生で学んだ事の1つ「警察官がそうと言ったら絶対にそう」のパターンだと察知しすぐにあきらめた。

「すいません、ぼく予約してたんですけど、このビル何があったんです?」

私が予約した店のエプロンをつけた店員に聞いた。

「お客さん同士でもうめちゃくちゃで!」

私が話しかけるまで呆然とビルを眺めていた店員のおばさんは一気に感情が溢れてしまい、詳しく聞き出すことはできなかった。

帰宅してテレビをつけると事件についての詳細が少しわかった。

「飲食店乱闘5人死亡5人重傷」という見出しだった。
「下駄箱で数人がもめていた」
「口論が聞こえ、次第に罵声が飛び交い、ただごとではないと見にいくと、その個室の全員が血だらけになっていた。」
「全員ビールでしょ、って言った男性に対して、女性が激昂しまして、そこからもう言い合いで」
「仲がいい集まりという感じではなかったです、みんなトゲトゲしい感じでした」

と店員や客の証言があった。

私が幹事となりweb上で正論を振りかざす人を適当に集めた「正論ナイト」の客たちに違いなかった。正論同士で仲良くするのかと思いきや、どうやら正論と正論がぶつかったのだろう。
webの正論が現実の世界ではここまでの惨劇になるとは。
もしも定刻に着いていたら私も危なかった。

翌朝、その狂気のグループを代表して店の予約をした私に警察から電話がかかってきた。

「ええ、そうですけど」

「その現場には行かなかったんですか?」

「はい、遅刻して、もう、あのざまで」

「そうですか、ちなみに何の集まりですかね?」

私は返答に困ったが、ここで言葉をつまらせたり嘘をついたら事件との関係を疑われると思い正直に答えた。

「正しい人の集まりです」

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