23/10/2020:『I Loves You Porgy』
通りの奥を左に曲がると喫茶店があって、僕はよく日常の瑣末なことで疲れた日によく訪れていた。そこまで言わなきゃわからない?というような所まで言わないと分かってくれない取引先や、駅で明らかに向こうからぶつかって来たのに僕の罪として認められた時なんか。
とはいえ、いいことがあった時にも訪れていたから、その辺はきっと引き分けにしてもいい。動画サイトのおすすめに出て来た曲が最高だったとか、ないと思っていたもう一本の缶ビールを冷蔵庫で見つけたとか。
でも、今日は違った。
僕は昨日長年付き合って来た彼女にやっとプロポーズをして、見事にokをもらったのだ。二つ返事、とまではいかなかったけれどー決して調子に乗らないこと・アホらしい嘘や誤魔化しをしないこと・異様なほどに太らないこと、などを条件として飲み込んだー、それでも僕は晴れて彼女と夫婦になった。
きっと、マスターも喜んでくれるはずだ。
そう思って、扉を開けた。
・・・
「それは素晴らしいね。おめでとう。」
と、マスターはお祝いの言葉をくれた。丸メガネに少し伸びた髪が有名なロックスターの晩年を思わせた。っと言っても、そのスターは晩年になる前に殺されてしまったけど。
「今日は奢るよ。」
と言って、いつものコーヒーとビスケットを出してくれた。
「何かアドバイスはありませんか?その、人生の先輩として。」
僕は予々聞いてみたかったことを聞いた。今、このタイミングこそ、ふさわしい質問だと思ったから。
「んー、そうだねー。僕のところも結婚して長いけど、んー。」
と、言ってカウンターの奥に目をやった。そこにはマスターの家族の写真が飾ってあるからだ。
「辛抱や忍耐、と言ってしまうと在り来たりだけれど、」
「はい。」
「それは相手の言葉や行動に対してではなく、僕が思うに、自分自身に対して向けられるべきなんじゃないかな、と思う。」
とても興味深い。それでそれで、と促した。
「必ずあるんだ。自分が、どうしても、どうしても気持ちが、こう、離れるってわけじゃないんだけど、見失ってしまうようなことが。純粋に相手との関係が原因ということもあるし、あるいは、シンプルに目の前に最高に抗い難い誘惑が襲来してくることもある。そんな時、そんな時だよ。」
「そんな時?」
「そんな時のために、覚えておくのさ。可愛い姿をね。あとはわかるだろう?」
と言って、マスターは笑った。
「いくら仲良くたって、外的な要因に勝つのは難しい。加えて、歳を重ねれば体がもたないんだ。それに、愛し方だって変わってくる。その時のために、今、まさに今、できる限りたくさん、長く一緒に過ごすことだよ。年を取ればみんな同じになり、そして死んでいく。だから、今の内に、もう全力を注ぐこと。それが僕のアドバイスさ。」
「ふむふふむ。」
と、僕は頷いた。
「その思い出や記憶、そして思い出や記憶にすらならない小さな積み重ねが、いつか、本当の辛抱や忍耐が必要になった時に、二人を救ってくれるんじゃないかな?まぁ、もちろん、そんなの人それぞれさ、とも言える。だけど、僕の場合、それは真実だよ。」
マスターはまたカウンターの奥を見て、確信したような顔で笑った。
・・・
その日のコーヒーもクッキーは本当にマスターがご馳走してくれたし、帰りも誰にもぶつかられずに家までたどり着くことができた。
「何かいいことでもあったの?」
と、家にいた彼女に言われたが、
「うん、まぁ、日常の瑣末な範囲さ。でも、うん、ありがとう。」
と、言うだけにした。
今日マスターから教わったことは、彼女には言わずに、そのまま黙って実行するのがカッコいいはずだ。
そしてあるいは、僕も彼女もマスターくらいの歳になってから、「実はさ」と打ち明けるのがいいか。
いや、でも、やっぱり。
そんなこんなで、僕は彼女の方を振り返り、その顔を優しく見つめた。
「何よ、何も出ないわよ。」
と、怪訝そうに彼女が言った。
僕は、
「あぁ、これで充分過ぎるほどさ。」
と、言うに留めた
彼女はまた怪訝そうな顔をした。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Keith Jarrettで『I Loves You Porgy』。
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